東行庵

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吉田郷は下関より東北へ六里、葬列は十六日の日没後、下関を出発した。
すべて神式によった。
参列者は三千人、それぞれ松明をかざし、星が動き、火が動き、長州におけるあらゆる儀式のなかで空前の盛儀であった。
墓域たるべき清水山の山頂に棺が到着したのは、夜十時である。

司馬遼太郎著『世に棲む日日』

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下関の少し奥まった場所、山陽道の要地「吉田」に「東行庵」があります。
清水山と呼ばれるこの地の麓に、奇兵隊軍監「山縣有朋」(やまがたありとも・狂介)は「無鄰菴」(むりんあん)と名付けた草庵を建てていました。
激動の人生を歩んだ「高杉晋作」は慶応3年4月(1867年)に死去、遺言により奇兵隊の本拠に近いこの地に葬られます。

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晋作に仕えていた愛人「おうの」(後に谷梅処・ばいしょ)は彼の死後、黒髪を断って出家します。
山縣は明治2年(1869)に無鄰菴をおうのに贈りました。
おうのは明治42年(1909)にその生涯を閉じるまで、晋作をこの地に弔い続けました。
「東行」は晋作の号です。

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伊藤博文が彼を顕彰した大きな碑があります。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨のごとし」と晋作を讃えた句が刻まれています。

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慶応3年(1867)4月14日、病床に臥せた晋作は、筆と紙を求め、最期の力をふりしぼり句を残します。

「おもしろきこともなき世をおもしろく」

そこで晋作は力尽き、筆を落としてしまいます。
すると枕元にいた福岡藩の勤皇女性・「野村望東」尼が書き継ぎます。

「すみなすものは心なりけり」

それを読んだ晋作は

「おもろいのう」

と微笑んで息を引き取ったと云います。

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「東行」(高杉晋作)の墓です。

天保14年(1843年)に生まれたおうのは、11歳で下関の妓楼堺屋に売られ、芸妓となるべく育てられます。
15歳で芸妓となったおうのは、20歳の時に、24歳の晋作と出会いました。
晋作は、おうのを身請けして九州で生活をともにします。

当時、雅子という正妻がいた晋作ですが、おっとりとした性格のおうのに安らぎを求めたのでしょう。
晋作とおうのが下関で出会っていた時、雅子は2歳の子を抱えて長州で寂しく暮らしていました。
下関でおうのと暮らす晋作の元へ、雅子が息子を連れて現れ、鉢合わせをしたこともあったと云います。
結局、正妻の雅子とは1年ほどしか同居せず、晩年はおうのとの暮らしが晋作の生活の中心となっていました。

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晋作の墓と道をへだてたところに、小さく質素な「梅処尼」(おうの)の墓があります。
晋作の死後、おうのと雅子は連絡を取り合っていたそうです。
一人の男を愛した二人の女、そこにも不思議で奇妙な縁があったのでしょう。
当の東行は、死後も「おもろいのう」と、飄々としているように見えました。

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