津和野の中心、城下町の古い町並み「殿町通り」に溶け込んだゴシック建築の教会があります。
「津和野カトリック教会」です。
中に入ると畳が敷いてあり、窓のステンドグラスとの対比が、不思議な和洋折衷の空間を創り出しています。
津和野カトリック教会は、昭和6年にドイツ人のヴェケレー神父によって建てられました。
そこに立っていると、クリスマスにだけ”にわかクリスチャン”になる僕でも、敬虔な心持ちになります。
このカトリック教会は、津和野で殉教したカトリック信者のために建てられました。
その歴史を紐解くと、なぜこのような山間の小さな盆地に、この立派な教会があるのか、その理由が見えてきました。
津和野に乙女峠と呼ばれる場所があります。
そこは実際には峠ではないのですが、津和野城主の娘さんが不慮の事故にあってこの山の麓に埋葬されたことから地元では「乙女山」と呼ばれていました。
JR津和野駅の裏に乙女峠へ通じる道があります。
そこから小川せせらぐ山道を10分ほど登ります。
「乙女峠」の名は、長崎原爆投下が原因で白血病により死した医学博士永井隆氏の絶筆『乙女峠』が由来と言われています。
その本によると、安太郎という若者の元にマリア様が現れたことが書き記されており、ここ乙女峠はカトリック教会未公認ながらも、日本で唯一、聖母マリア出現の地となっているそうです。
乙女峠に到達すると、そこはまさに聖母様の慈愛に満ちたような、優しく素敵な場所でした。
しかし聖母様が出現したのには悲しい歴史があり、ここでキリシタンの拷問が行われていた、というのです。
永井隆博士の『乙女峠』は、慶応3年(1867年)の「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリシタン弾圧事件で、津和野に配流されたキリシタン達の実話物語です。
永井隆博士は、この話をこの事件の中心人物であった守山甚三郎から聞いて物語にしたためました。
キリシタン弾圧の歴史は、途方もなく長く熾烈なものでした。
江戸時代も終わりに近い慶応元年(1865年)、当時「フランス寺」といわれていた長崎大浦天主堂の宣教師プチジャン神父は、キリスト教が閉ざされて長いこの国にも、密かに信仰を続けている人がいるのではないかと期待を込めて、教会の正面に日本語で「天主堂」と書きました。
するとある時、プチジャン神父の元に15人の人が訪れ、「ワタシノムネ(宗・信仰)、アナタトオナジ」、「サンタマリアの御像はどこ」と尋ねました。
これは250年間以上ものキリシタン禁制の中、密かに信仰を守り続けた「キリシタンの発見」であり、全世界に衝撃を与えた出来事でした。
1867年、浦上のキリシタン達は「私たちは昔からのキリシタンの信仰を守ってきた家でありますので、これからはキリスト教の葬式(埋葬)を行いますからご承知下さい」という口上書を庄屋に届け出ました。
庄屋は驚いて、これを長崎代官に届けます。
これが「浦上四番崩れ」というキリシタン弾圧の発端となりました。
一番から四番まである浦上のキリシタン弾圧のうち、「四番崩れ」は、これまでの密告ではなく、自らの告白によるものでした。
その結果、幕府はキリシタン114人を呼び出し、備後の福山、長門の萩、石見の津和野に流罪としました。
その後も浦上四番崩れの弾圧は続き、流罪となったキリシタンは3400人にのぼると云います。
最終的に津和野へは153名が流刑されました。
津和野藩は当初、キリシタンの信徒を改心させる努力を行いましたが、キリシタンの信仰は厚く、たやすく改心させることは出来ません。
そこで彼らは、ついに拷問を加えて棄教させる方法をとりはじめたのです。
乙女峠には当時、廃寺となった光琳寺がありましたが、これをキリシタンの収容所としました。
キリシタンたちは着のみ着のまま、雪深い津和野の獄舎で冬を越すことを強要されます。
日増しに食事は減らされ、乙女峠の一隅にある池の氷を砕いて裸にして投げ込み、更に火あぶりにして責めました。
乙女峠の敷地には、キリシタン達が食事に使った井戸が残されています。
その井戸の横にある、噴水と花に彩られた池が、かつて氷責めに使われた池です。
守山甚三郎はこの拷問が一番苦しかったと覚書のなかに書いています。
そして時代が変わり、明治の世となりますが、このキリシタン弾圧が終わることはありませんでした。
安太郎という若者は明治2年1月10日、裸のまま雪の中で、腰を起こすこともできないほど小さな三尺牢に入れられました。
彼を心配する3人のキリシタンは、貨幣を用いて床に穴を開けて抜け出し、安太郎を訪ねました。
1月17日、密かに彼の様子を伺うと、安太郎は言いました。
「私は少しも寂しゅうはありません。毎夜九ツ時(十二時)から夜明けまで、きれいな聖マリア様のような面影のご婦人が頭の上に顕れてくださいます。とてもよい話をして慰めてくださるのです。」と。
敷地にこの時の様子を表した像が置いてある場所があります。
ここが正に、聖母マリアが顕現した場所です。
この安太郎の言葉は守山甚三郎の覚え書にも残されていました。
守山甚三郎と高木仙右衛門は、生き残って長崎に帰り天寿を全うしています。
五年間の拷問、責苦や殉教の有様を塵紙に詳しく書き残しました。
役人は甚三郎を責めるため、彼の14歳の弟を杉丸太に十文字にしばりつけ、その後裸にしてむちで打ちました。
打たれるたびに泣き叫ぶ少年の声が、乙女峠中に響きました。
キリシタンの拷問は年端のいかない子供にも容赦なく行われたと言います。
ある時、飢えた5歳の女の子、モリちゃんに役人はおいしいお菓子を見せて、「食べてもいいけどそのかわりにキリストは嫌いだと言いなさい」と言いました。
モリちゃんは「天国の味がもっといい」と答えて殉教の幸せを選びました。
拷問に耐えきれなくなり、口でキリストを捨てた人もいましたが、彼らは働きで得た金で食べ物を買い、信仰を守り通している人々にひそかに差し入れをして助けました。
しかし結局、津和野に流刑されたキリシタンのうち37名が命を落とすことになりました。
明治25年、ビリヨン神父は、乙女峠の隣の谷に葬られた殉教者たちの遺骨を一つの墓に集めました。
第二次大戦後、津和野に来たネーベル神父は帰化して「岡崎祐次郎」と名乗り、乙女峠に殉教地が祈りにふさわしい場所となるように心をこめ記念聖堂を建てました。
乙女峠の奥、天保の飢饉で亡くなった人を葬った「千人塚」のそばにある「至福の園」に乙女峠て殉死した37人は埋葬されています。
乙女峠の奥へ足を運ぶと古田織部の作という「織部灯籠」がありました。
一部の織部灯籠はキリシタン灯籠とも呼ばれているそうです。
また敷地内に不自然に置かれている電話ボックスを見てみると、受話器が二つ備えられていました。
これは通話相手を含め、3人同時に会話できる「デュエットフォン」というもので、1990年、NTTが電話事業100周年を記念して設置されたそうです。
受話器を同時にとった人と絆が深まるという謂れもあるそうです。
聖堂の中に入ってみると、ステンドグラス越しに光が差し込み、穏やかな空気が流れていました。
優しい表情のマリア様の像があります。
一粒の麦は地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。だが死ねば多くの実をつける。
主よ
御教えの為に生命を献げし者を
天国に引き取り給いし如く
主を信ずる吾等もその功によりて
天国の幸福を得せしめた給え