神倉神社

投稿日:

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熊野速玉大社のあたりの平地から山の方に、はっきり視認できる大岩があります。
それが「ゴトビキ岩」と「神倉神社」の姿です。

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朱塗りの橋を渡ると「猿田彦神社」「神倉三宝荒神社」が見えます。

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「猿田彦命」は導きの神なので、まずはご参拝。

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「日本書紀」の「神武天皇紀」にはこうあります。
「(神武天皇は)佐野を越えて、熊野神邑(くまののみわのむら)に至り、天磐盾(あまのいわだて)に登った」。
この「ゴトビキ岩」が「天磐盾」と言われています。

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さて、いよいよ「神倉神社」本殿を目指します。

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いきなり現れる急勾配な石段を見ると、心が折れそうになります。
でも落ち着いて見てみましょう。
なんとも見事な石段です。

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538段あると云うこの石段は「鎌倉積み」といい、かの「源頼朝」が源平合戦の折に活躍した熊野勢を評して寄進したものだそうです。
そう思うと、きつい一歩一歩にも古の思いが沸き立ちます。

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しばらく行くと「火神社」が見えてきます。
神倉神社では「お燈祭」(おとうまつり)という火祭りが行われます。

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どこまでも続くかのように思えた石段も10分ほどで目的地に届きます。

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何やら意味深な鳥居と玉垣。
ここから先は聖地ということでしょう。

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すると風格のある手水舎がありました。

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新宮城城主の水野重良が寛永8年に寄進したとあります。

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そしてその先に現れたのは、御神体「ゴトビキ岩」。
圧巻です。

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「ゴトビキ」とは熊野の方言で「ヒキガエル」のことです。
確かに。。
そして社殿はヒキガエルに押しつぶされそうです(笑)。

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「神倉神社」の主祭神は「高倉下命」(タカクラジノミコト)といい、記紀では瓊々杵命(ニニギノミコト)の兄、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の子とされています。
高倉下命とは神武天皇の東征において天皇が苦戦している時、アマテラスの計らいによりタケミカヅチより霊剣「布都御魂」(ふつのみたま)を授かった人です。
「布都御魂」は「天叢雲」(あめのむらくも)「天羽々斬」(あめのはばきり)と合わせて神代三剣と呼ばれ、現在は奈良の石神神宮の御神体となっています。

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社の周りを散策していると、焦げ跡のあるくぼみを見つけました。

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勇壮な火祭りである「御燈祭」で火を焚く場所なのでしょう。
ここから白装束の男たちが松明を持って、あの急斜面の石段を駆け下りるのだそうです。

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なみなみならぬ神気を感じさせる「神倉神社」は「熊野速玉大社」の元宮とされています。

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「ゴトビキ岩」の上あたりが「熊野三所大神」が天降り給うた神籬となっているのでしょう。
絶景の遠望と気高さのある「神倉神社」を、それでは僕も駆け下ります。

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と、今にも下ろうとしたその時、地元の方らしき、とある女性が話しかけてくださいました。
「少し良いところへご案内しましょうか?」

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その女性に案内されるままに通されたの場所こそが、この「神倉神社」の真の聖地でした。

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そこは一般にはあまり知られていないようです。

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今の日本の聖地には、当たり前のように本殿や拝殿、鳥居などの建造物が建てられていますが、原初の祭祀では直接、大自然の造形物を伏し拝んでいました。

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ここは正に、そうした超古代の祭祀跡に他なりません。
日本最初の宮はスサノオが建てたと云いますから、このゴトビキ岩は神話の以前から祭祀が営まれていたということになるのでしょうか。

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神倉の山は古来から「熊野の根本」と言われ、神の祭礼場として崇められてきました。
神が天下った場所であり、原始の磐座信仰の聖地なのです。
偶然の縁によって拝することができた真の聖域、この奇跡とも言える光景に感動し、涙せずにはいられませんでした。

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3件のコメント 追加

  1. たぬき より:

    高倉下命。
    父は五十猛/天香語山命(徐福(天火明命)と出雲の富王家の高光姫命の御子)
    母は出雲の神門臣王家、高彦/味耜高彦の女の大屋姫命。
    (伝、伯母の高光姫命の輿入れに際して付いて来て身の回りのお世話をしていた?)
    天村雲命の異母弟。で、母親と共に紀伊国に移り住み紀伊国造家の祖となる、
    いわゆる神武東征に際して、九州から侵攻してきた物部勢力を高倉下の子孫らは勇敢に迎撃、熊野に迂回した軍勢を追撃して熊野川の中洲に追い詰め、殲滅寸前にまで追い込んだらしい。
    (神話で高倉下命が神武軍を助けた云々は嘘。)
    その熊野川の中洲が紀伊熊野大社の元地、大斎原だとか。

    高倉下命の子孫に武内大田根命が現れます。
    この方がいわゆる武内宿祢(九州の物部勢のヤマト攻略(準備段階)に加担して宿祢の称号を賜る)。

    時代は第二次物部ヤマト侵攻(この時に別動軍の猛攻を受けて約700年続いた出雲王国は滅亡)の
    リアル神武=イクメ大王/垂仁大王の時代。

    色々変遷、流転があって最終的には出雲の元王家、富家に保護され富家の姫を娶り、
    出雲の王族の称号の臣を賜り、武内臣大田根と号して、
    子を残し出雲で没します。
    、、、これが後々、日本の歴史上最重要な意味をもちます。

    熊野に迂回した神武は第一次物部侵攻の時で物部三兄弟が出陣。一方が戦死なさり、二人が共に大和入り。どちらが大王(主導)となったかが不明な為に
    ウマシマジという架空のキャラクターを創作したとか?
    孝霊大王の頃?

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      高倉下は神武側だと思っていましたので、敵対していたと知った時は驚きでした。

      【名字由来net】というものがありまして、僕の名字を検索してみると、

      「清原氏(天武天皇の皇子舎人親王の子孫)の五条系図に見える。現愛知県である尾張藩、現山梨県である甲斐、現山形県、秋田県である出羽、現岩手県南東部と北西部を除く地域である陸中、現長野県である信濃、現福岡県の一部と大分県北部である豊前にみられる。」

      とあり、驚きました。
      天武天皇といえば、富家の「オホド大王」と、武内襲津彦の子孫「蘇我刀自姫」の御子「カナヒ王」の血を引く石川臣系の帝となります。
      清原氏の五条系図を見ると、確かにその先に僕の名字の一族があり、かつ五条氏は筑前に移ってきています。
      父の実家のすぐそばには、五条という地名の場所もあります。
      福岡という土地柄、物部の血は流れていても、出雲人のそれはなかろうと思っていましたが、僕にも出雲のDNAが流れているのかもしれないと思うと、嬉しくなってきました。

      いいね

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