玉置神社

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「熊野なる玉置の宮の弓神楽 弦音(つるおと)すれば悪魔退く」

奈良県玉置山の標高1,000mを超える場所に鎮座する「玉置神社」(たまきじんじゃ)は、「神様に呼ばれた人しか行くことができない」超絶なパワースポットと云われています。
熊野三山の「奥の宮」と言われ、「空海」や「役行者」も修行に訪れていると伝わります。

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玉置神社は近くまで車で行けます。
広い駐車場もあります。
が、走っても走ってもなかなか辿り着かない、そんな感じの山道を延々と走ります。

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そうして、ようやく辿り着くことができました。
人によっては行こうと思うと仕事が入ったり、都合がつかなくなり、なかなか行くことができないこともあるそうです。

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車を降りて、しばらく歩きます。

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玉置神社は2000年以上続く由緒ある神社です。
奥に行くほどに、空気が澄んでいくのがわかります。

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歩く壁面には所々、小さな社があります。

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更に歩いていくと杜が深くなってきました。

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いよいよ境内の深部に入っていくと、

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杉の巨木が増えてきます。

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「夫婦杉」「いわれ杉」など、名のついた大杉が姿を現しますが、

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ひときわ存在感を放つ異形の杉が見えます。

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「神代杉」(じんだいすぎ)と呼ばれるもの。

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神代の時代の3000年前からそこにある杉と云います。

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そして「本殿」が見えてきました。

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創立は紀元前37年、崇神天皇の御宇に王城火防鎮護と悪魔退散のため、早玉神を奉祀したことに始まると伝えられています。
御祭神は「国常立尊」(クニトコタチノミコト)を筆頭に、「伊弉諾尊」(イザナギノミコト)、「伊弉冊尊」(イザナミノミコト)、「天照大御神」(アマテラスオオミカミ)、「神日本磐余彦尊」(カムヤマトイワレヒコノミコト)です。

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国常立大神が主祭神で、そして御神徳がここまで攻撃的なのも珍しいです。

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玉置神社の社務所はもと「高室院」という別当寺でした。

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別当寺とは神社の経営管理を行っていたところです。
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の難を逃れ、国の重要文化財に指定されています。

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更に足を進めて「三柱神社」に参拝。
御祭神は「倉稲魂神」(ウガノミタマノカミ)、「天御柱神」(アメノミハシラノカミ)、「国御柱神」 (クニノミハシラノカミ)です。
三柱神社は古くは「三狐神」(ミケツカミ)と呼ばれていたらしいです。
「三狐神」とは「御饌津神」と書き、食物を司る神です。
昔は狐のことを「ケツ」と呼んだため、「御饌津神」を祀る「稲荷社」では神の使いが「狐」となったそうです。

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「玉置山権現縁起」によると「三狐神」は「天狐・地狐・人狐」とされ、その本地(ほんじ/神々の根本真実身のこと)は「聖天」(ショウテン/大聖歓喜自在天)であり、「荼吉尼天」(ダキニテン)であると云います。
ここでは「憑き物落とし」などの霊験もあらたかとのこと。

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さて、いよいよ玉置神社の真髄へと向かいます。
三柱神社の裏手から山に入ります。

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なかなか険しい山道を登ります。

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小さな祠などがありました。
そして途中、玉垣に囲われた場所があります。

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三本の杉の木の中心に丸い石が見えます。
これが「玉置神社」の聖地の中の聖地、「玉石社」です。
「大巳貴命」 (オオナムヂノミコト)を御祭神として祀るこの玉石は、地中にどのくらい埋もれているかわからないほどの巨石のごく一部ということです。

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この石が「玉置神社」の始まりの石となります。
神武天皇は東征の際、八咫烏に導かれ玉置山へ入り兵を休めました。
この時、神武天皇は「玉石」の上に神宝を置き勝利を祈ったといわれています。
また、役行者が「如意宝珠」を埋めたとか、この石の上に熊野速玉の神が舞い降りたなどの伝説があるようです。

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「玉石社」の側には「三石社」があり、こちらも三つの霊石が並ぶなかなかの神跡です。

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御祭神として充てがわれている神はイザナミの死を悲しんだイザナギが斬り殺した「カグツチ」にちなむ神の名です。

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そして息も絶え絶えに、ついに山頂に着きました。

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そこには、雲の合い間をうねらせる「龍神」の姿がありました。

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大きな背びれの如き山の峰々。

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延々と連なる熊野の山々の姿は、まさに龍神そのものです。

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遠くには熊野灘に浮かぶ船の姿。

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労に値する素晴らしい光景に感動しました。

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ちなみに玉置神社に参拝したならおすすめなのがこちらの札。
「熊野なる玉置の宮の弓神楽 弦音すれば悪魔退く」
と、「悪魔退散」霊験あらたかな、とても強力な札だと云います。

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12件のコメント 追加

  1. nakagawa より:

    CHIRICOさんの労作かつ大傑作である系図に年号が入れば、もう古代史は完璧ですね。(あんな大変なものを公開してくださって本当にありがとうございます。お世話になっています。)
    星の話が好きなのは計算で年代が絞れるからですが、すごい数字が出て来ることも多々あって、これはこれでちょっと困ってはいるのです。もう慣れましたけれど。
    「BC2700年頃に脊振山頂でツバーンを祭祀??縄文時代にそんな人が居た??」と言うのが真っ当な反応だと思いますが、聞いて下さってありがとうございます。
    各地の伝承を付き合わせて整合性がとれればいいですね。

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    1. CHIRICO より:

      年号を入れてみようと試みたことはありますが、訳のわからないことになって諦めました(笑)
      古代史の研究では、時として驚く話が出てきたりします。
      専門の方の間でも様々な説が飛び交う訳ですから、僕ら素人がどこまで推し量れているのかも疑問です。
      超古代文明説なんてのもあるので、BC2700年という話もあって良いかと。
      もちろん全てがすっきり、整合性が取れると嬉しいのですが、それができれば歴史問題はとうに解決しているのでしょう。
      謎が謎を呼ぶ、だから古代史は面白いのだと思います。

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  2. nakagawa より:

    CHIRICOさんのコメントはヒントに溢れていて感謝感謝です。

    志賀海神社の沖津宮には天御中主が祀られていましたね!
    今の今まですっかり忘れていました。

    天御中主は日周運動の中心付近を神格化したもので、BC2790年頃はツバーンがその位置にありました。
    つまり当時の北極星です。

    真北に動かない星があれば、航海の目印としてありがたかったことでしょう。
    ツバーンに対しての「信頼」とは、そういうことだと思います。

    よって、脊振山頂がツバーンを祭祀する天壇だったとしたら、おそらくその頃に遡る話ではないかと思われます。(前後何百年かの幅はありますが。)

    その後地球の歳差運動のため、ツバーンはだんだん中心からそれて行き、次の北極星であるポラリスが近づいて来ます。
    安曇族はこの星もあわせ、二つの玉に仮託したのですね。

    現在も沖津宮に天御中主が祀られているというのは、歳差運動も含めて星を読んでいた安曇族の祭祀を伝えていると思いました。

    いやー、こんな話になるとは。

    つい興奮して長文失礼しました。

    ちなみに、私が一番好きなのは表津宮跡です。
    何にも無いのでオススメはしませんが。

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    1. nakagawa より:

      すみません。
      書き忘れていました。

      >脊振まで祭祀の範囲を広げていた

      のではなく、脊振の麓から海岸線の後退に従って移動していった。ということのようです。

      中心地が「カジワラ→カスガバル→カシイ」と移ったという話がありました。

      以上『儺の國の星・拾遺』からの受け売りでした。

      (この辺は時系列がよくわからず未消化なので、CHIRICOさんにぜひ読んでいただいて解説して欲しいなぁーと思ったり。)

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      1. CHIRICO より:

        物部氏の祖「徐福」は佐賀の波多に上陸したそうです。
        その後、彼の子孫らが築いた一大物部王国が「吉野ヶ里遺跡」です。
        なのであそこからはたくさんの甕棺が出土しています。
        筑紫平野から背振を越え、福岡平野方面に支配域を広げていったというのが、素直な解釈の仕方になりますね。
        住吉の祭神である筒神はオリオン座の3つの星だそうなので、元は背振で祭祀されていたのではないでしょうか。
        住吉神社の元宮とされる現人神社は脊振麓にあります。
        安曇族の祭祀する綿津見神は、綿津見=海神=海童ということで、徐福とともに海に出たが、日本に着くまでに海の泡と消えた童男童女の霊だそうです。

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    2. CHIRICO より:

      表津宮跡、確かに何もないところですが、一番何かを感じさせるところですね。
      三社一体の祭祀形式は宗像大社に通じるものがりますが、宗像族と宇佐族は繋がりがあるようで、宇佐族と物部族の混血が安曇族だとしたらその祭祀にも納得するところです。
      もっとも、物部の祖「徐福」は宗像三女神の「市杵島姫」を妻にめとったという話なので、物部だけでも宗像につながるのですが。

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  3. nakagawa より:

    脊振山頂を天壇として玉を供える話について、コメントをいただいてから肝心なことを書いていなかったことに気づきました。
    あれは安曇族の祭祀なのです。
    ポラリスとツバーンの位置関係で干満を知ったという、舟で海を行く氏族ならではの話の先にある祭祀です。
    社家の玉置氏は尾張連の流れを汲むという説があり、尾張連は綿津見神を始祖とする説があるのでついテンションが上がってしまいました。(いずれも根拠はないそうですが。)

    ドライブ中に車窓から見える風景を手元の地図で確認していて、
    「あれ?なんだか脊振に似ている。玉置山?へぇー。」
    から始まった妄想でした。
    お付き合いくださり恐縮です。

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    1. CHIRICO より:

      なるほど、ありがとうございます。
      僕は安曇族は、物部族と宇佐族のハイブリッドだと思っています。
      脊振まで祭祀の範囲を広げていたとは、当時かなりの勢力を持っていたのですね。
      ところで志賀海神社にも中津宮と沖津宮があるのをご存知ですか?
      なかなかなものですよ。

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  4. nakagawa より:

    「玉置」という名前が引っかかっていたのですが、脊振にも「玉」にまつわる話があったのを思い出しました。
    四方山話として聞いていただけると幸いです。
      
       * * *
    現在の北極星はこぐま座のポラリスですが、紀元前2790年頃はりゅう座のツバーンが北極星でした。
    那珂川の祖先はツバーンに対して無限の信頼を寄せていて、脊振山頂はこれを祭祀する天壇だったそうです。
    一方、ツバーンの象徴は青い玉で、神代の昔は海神が青玉白玉を祭壇に供えて海路の安全を祈ったと言う話があります。
    (以上は『儺の國の星拾遺』p.89を参考にしました。)

    山を天壇として玉を供える祭祀があったのですね。

    もしかすると玉置山も古くは天壇として玉を供えた所だったのかもしれない、なんて妄想しました。

    ただ、シームレス地質図で見ると、貫入岩が露頭している絶妙な場所にあるので、そういう場所だと知って祭祀したのかもしれないとも思います。

    ともあれ、玉置神社があることも熊野三山の奥の宮と言われていることも知らなかったので、記事を書いてくださっていたおかげで知ることが出来ました。
    ありがとうございます。

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    1. CHIRICO より:

      物部氏や海部氏のような前期秦一族は道教信仰であったので、星神を奉祀していたそうです。
      なので福岡近辺でも天拝山など、夜に登山しやすい形の良い低山に登り、星を祭祀していたと聞いています。
      玉置神社も神武伝承が伝わっていますので、物部族の子孫がそこを祭祀の場として祭り続けてきたのだと思われます。
      玉石を祭祀に使用したというのは、秦国から移り住んだ彼らならありうるように思えますね。
      出雲人はサイノカミ信仰に基づく胎児の形の勾玉を重視したのに対し、丸い石を星に見立てたというのは納得です。

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  5. nakagawa より:

    こんにちは。
    先日南紀をぐるっとドライブしまして、chiricoさんの熊野関連記事を改めて読ませていただいてます。

    玉置山は、那珂川市の五ヶ山東方面からちらっと見える脊振山頂に似ている気がした山でした。
    (と言っても、すぐに通り過ぎたので果たして玉置山だったかどうか怪しいのですが。)

    アップされている画像を見ると、山之神や白山社・三石社は枕状溶岩の露頭のようにも見えます。
    今回はジオパーク巡りが主目的だったのですが、そういう視点からも興味深いところですね。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      なるほど、確かに脊振に似た雰囲気はあるように思います。
      南紀はジオパークとしてみても、魅力的な場所ですね。
      先日改めて、熊野旅をしてきたところですが、また新たな欲が出てきて、もっとマイナーな聖地を旅してみたくなってきたところです。
      玉置神社ももう一度訪ねて、写真も撮り直したいですね。

      いいね: 1人

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