天と地の狭間に立っている。
色は薄く、線の細い体は柔らかな曲線を描いている。
口ずさむ祈りは、歌のように流れて空の彼方に消えていく。
天に届くかのように、
まるでそこが故郷であるかのように、
彼女は両の手を差し出した。
淡い瞳に映るは遠い異国の地。
日の巫女の再来、我が日孁。
やがて沈みゆく日を背に振り返り、彼女は呟く。
さらに暗し。
【風師山・風師神社】
いよいよ仲哀天皇、神功皇后の一行は筑紫に向けて出航します。
途中、様々な要地に立ち寄りますが、皇后はことあるごとに山に登り、そこで祭祀したようです。
関門海峡からすぐ近くにある風師山(かざしやま)にも登り、風の神に航海の安全を祈ったと言うことです。
風師山展望台の少し奥には、森になりかけている磐座がありました。
まるで生きているように隆起する岩。
この角度から見ると、大きなトカゲの顔のように見えます。
風師山の麓に風師神社があります。
そこから望む風師山。
神社は住宅街の隙間にそっとありました。
関門海峡を越えた天皇一行は洞海湾に面する戸畑・若松地区にさしかかります。
【飛幡八幡宮】
「飛幡八幡宮」(とびはたはちまんぐう)は戸畑の中心地にあります。
飛幡が戸畑の名の由来となったようです。
街の中にある神社ですが境内は広いです。
そこで粛々と祀られる神。
その拝殿横に「霊巌」と彫られた岩があります。
これは「千曳の岩」(ちえいのいわ)と伝わります。
戸畑の少し北、「名護屋大済」(なごやのおおわたり)というところで仲哀天皇は外海を、神宮皇后は「洞の海」(くきのうみ/洞海湾)という内海を別れて進むことにしました。
その際、天皇は海路の妨げになって危険だと言って、そこにあった千曳の岩を引き揚げさせ、それを祀って航海安全を祈りました。
その後、名護屋社殿を移すときに、その下からこの大岩が出てきたので、「霊巌」と刻印してここに祀っているそうです。
【若松恵比須神社】
洞海湾の入り口、若戸大橋の下に「若松恵比須神社」があります。
こちらの境内も広々としています。
洞の海へ進みだした神功皇后ですが、いきなり皇后の船が進まなくなります。
そこへ重臣の「武内宿禰」が漁夫に海底を調べさせたところ、光る石が見つかります。
それを恵比須神(事代主神)として祀ったのが若松恵比須神社となりました。
今もその石を御神体として祀り続けています。
「若松」は武内宿禰がこの神社近くの浜を訪れ、若々しい松林を見て愛でたことが名の由来だそうです。
境内には江戸時代後期の珍しい「方位石」という石も置かれています。
ここの狛犬がとても愛らしかったです。
子持ちの狛犬です。
阿吽の吽の方は二児の子持ちです。
境内には二つの摂社があり、
笠森稲荷神社と
天満神社になります。
【国見岩】
洞の海を進む神功皇后。
そこに海にせり出した、圧倒的な存在がありました。
皿倉山です。
神功皇后はもちろん、この山にも登ります。
僕はケーブルカーとスロープカーを乗り継いでズルをしました。
この両カーも展望が素晴らしく、乗る価値あります。
皿倉山頂上からの展望。
絶景、としか言いようがありません。
夜には「100億ドルの夜景」と謳われる風景が広がります。
関門海峡もかすかに見えます。
皿倉山は他に権現山、帆柱山、花尾山などが連なります。
帆柱山は仲哀天皇や神功皇后らの船の帆柱となる木を切り出したことが由来となっています。
皿倉山山頂から10分ほど下ったところに、神功皇后の神跡があります。
それは「国見岩」。
断崖絶壁のその場所から、神功皇后は国を見下ろしたと云います。
下は身も竦む光景です。
この日は霞んでいますが、澄み渡った日は山口の角島なども見えるようです。
神功皇后がことあるごとに山に登ったのは、より天に近い場所を望んだからでしょう。
シャーマンたる彼女には、そこが神の声をより深く聞き取れる場所だったのです。
また、神功皇后は古代朝鮮からの渡来人「天之日矛」(アメノヒボコ)の末裔と伝わります。
皇后はこの国見岩から、遠く先祖の故郷「新羅」を望み、その地を手に入れる覚悟を決めたのかもしれません。
美しい光景に皇后は時を忘れてしまいます。 気づくと日も暮れ始め、下山を急ぎます。 その時「さらに暗し」と言った皇后の言葉が、「皿倉」の名の由来となったと伝わっています。
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