「岡の水門」は開けていた。
行き交う人々で賑わい、活気に満ちている。
空は晴れ渡り、海風が潮の香りを運んでくる。
ここが熊襲征伐の拠点となるのか、
皇后はしばし物思いに耽っていた。
昨夜は熊鰐が屋敷で、珍しい魚などを振舞ってくれた。
つくづくよく尽くしてくれる男だ。
そう思っていると、その屋敷の主人ががやってきた。
「姫様、ひとつお願いがございまして参りました。
この先に高津峯という三面宝珠の山がございます。
この峯に多くの神々が国家鎮護のために天下りなされます。」
熊鰐は髭面で大きな体を小さくかがめ、うやうやしく皇后へ申し上げる。
「急いで山に登り、朝敵討伐のことをお祈りください。
必ずや姫様にお力添えをいただけることでしょう。」
皇后の瞳は好ましい、この大男の下げた頭をしばし見つめ、
それから遠く青い空を見た。
まぶしい光にその瞼は僅かに瞬いた。
【岡湊神社】
神功皇后一行が「岡の水門」に到着するより早く、仲哀天皇一行はすでに辿り着いていましたが、その時にトラブルがありました。
天皇の船が進まなくなってしまったのです。
「熊鰐は嘘偽りのない心で迎えに来たのに、どうして船が進まないのか」
仲哀天皇は熊鰐の忠誠心を疑います。
「御船が進まないのは私の罪ではありません。この河口に男女の二神がおります。
男神を大倉主(おおくらぬし)と言い、女神を菟夫羅媛(つぶらひめ)と言います。
きっとこの神の御心でしょう」と熊鰐は答えます。
この大倉主と菟夫羅媛を祀る神社が「岡湊神社」(おかのみなとじんじゃ)です。
仲哀天皇が目指した「岡の水門」とはここのことで、後に神功皇后も合流し、最初に熊襲征伐の拠点と定めた場所でした。
ゴールデンウイークの頃、境内に雪が降ったように咲く白い花は「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれる「ヒトツバタゴ」です。
「ヒトツバタゴ」は対馬市の「市の木」となっており、対馬の鰐浦地区に自生しています。
鰐浦地区では一面を真っ白に染めるこの花を「ウミテラシ」とロマンティックな名で呼んでいます。
神功皇后はこの後、対馬を経て三韓征伐に赴きます。
その時、皇后はこの美しい花を持ち帰ったのかもしれません。
岡湊神社の拝殿です。
ここは「高倉神社」の下宮でしたが、後に独立した神社となります。
高倉神社の御祭神も大倉主と菟夫羅媛です。
境内はなかなか広く、陣を敷いた当時が偲ばれます。
遠賀川を挟んで岡湊神社の対岸あたりに熊鰐の屋敷はあったと言います。
社務所の裏手にあるびっくりするぐらい大きな大蘇鉄も見ものです。
【埴生神社】
仲哀天皇と神功皇后は岡の水門にしばらく滞在しますが、その間に近辺で祭祀を行ってまわりました。
神功皇后は行く先々で祭祀を行います。
シャーマンである彼女にとって、その土地の神々の恩寵を得ることは、最大の武器でした。
そして皇后様自ら自分の土地神を祀る姿は、人々に、神秘的かつ魅力的に見えたことでしょう。
その行いこそが、彼女の絶大なカリスマ性につながったと思います。
「埴生神社」(はぶじんじゃ)は遠賀川を遡ったあたりにある神社で、公園の中にあって、とても雅な印象です。
ここの池はかつての海の名残のようです。
天皇・皇后はこの地に訪れ、航海の安全を祈りました。
【伊豆神社】
さらに遠賀川を下って、田園のあぜ道を行くと「伊豆神社」(いずじんじゃ)があります。
ここは皇后が政(まつりごと)を聴いた神迹(しんせき/聖地)と伝わります。
【久我神社】
伊豆神社から少し奥まった丘の方へ進むと「久我神社」(くがじんじゃ)があります。
皇后はここで祭神の「彦火火出見尊」「鵜葦草葺不合尊」「玉依姫」に捧げるため、
自ら鱸(すずき)を釣り、竹を四つに割って、縦五本、横四本、長さ一尺二寸(約37センチ)の竹の器を作らせ、
蓼(たで)の葉を敷いた「組の膳」を作ったと伝わります。
【神武天皇社】
岡湊神社から少し離れたとこに「神武天皇社」があります。
その名の通り、神武天皇ゆかりの地です。
架空の人物と思われる神武天皇が、岡田宮を定める時の候補地の一つだったと云われています。
境内に上ると、こじんまりとした祠の他に何もありません。
ここは第二次世界大戦を含む、度々の戦火で、幾度も焼けてしまったそうです。
神武天皇の御分霊を祀ったご神体は幸い失うことなく、今は岡湊神社に祀られているそうです。
社殿は伊勢神宮遷宮の際に譲られたもの。
仲哀天皇、神功皇后も参り、神武天皇も禊いだ美しい湧き水があったそうですが、戦時に芦屋空港を造った際に消失したとのことです。
【高倉神社】
さて、岡の水門に着いた神功皇后は、熊鰐からすぐに「高津峯」という山に登って祭祀をするように勧められます。
高津峯は神が降り立った神籬であり、熊鰐にとって最大の聖地だったのでしょう。
神功皇后は喜んでその山に登り、大倉主を祀る高倉神社に参拝しました。
高津峯の麓にある「高倉神社」(たかくらじんじゃ)です。
立派な楼門が構えています。
とても重厚で趣のある拝殿があります。
御祭神は「大倉主」と「菟夫羅媛」です。
そう、仲哀天皇の船を止めたという、あの二神です。
熊鰐は自分の一族最大の聖地であるここ、高倉神社で天皇に滞在いただき、神功皇后にぜひ祭祀願いたくて、あえて船が進まなくなるような海流に乗り入れたのかもしれません。
高倉神社の境内に「伊賀彦社」があります。
仲哀天皇の船が進まなくなった時、船頭で倭國(やまとのくに)の菟田(うだ)出身の「伊賀彦」(いがひこ)に、ここの二神を祀らせます。
そうすると船は再び進みはじめたそうです。
伊賀彦はここに残り、生涯を終えたのでしょう。
裏には伊賀彦の古墳があるようです。
拝殿の横には、すごい御神木がありました。
「綾杉」です。
僕はこれの他に二つの綾杉を知っています。
神功皇后が三韓征伐から凱旋の折、お礼参りとして逆さに植えた杉だそうで「サカスギ」と言い伝えらてたそうです。
たぶん鎧の隙間に挟んでいた、香椎宮の「綾杉」の枝の一つでしょう。
若杉山にも同じように植えた「綾杉」があります。
この綾杉は大友宗麟によって高倉神社が焼討ちにあった時も、なんとか生き延びて今に至るそうです。
深くえぐれた幹の中は焼け焦げた跡もあります。
面白い石柱がありました。
昭和の大旱魃で雨乞いに彫られた龍のような水神だそうです。
朱い鳥居の先にはお稲荷さんもあります。
そして境内の奥に謎の祠がありました。
扁額に「山﨑姫」とあります。
山﨑姫とは高倉神社の初代の宮司の奥様らしいです。
と言うことは、伊賀彦の奥さんってことになるのでしょうか。
このぼろぼろの祠はかつての「伊賀彦社」です。
この高倉神社ではもうひとつ、大事件が伝わります。
天智天皇の頃、新羅国の僧「道行」とう者が名古屋の「熱田神宮」から、
あろうことか三種の神器のひとつ「草薙の剣」を盗み取って逃げようとしました。
しかし博多まで逃たものの、ここ岡垣町で取り押さえられます。
そして草薙の剣が再び盗まれないよう、この高倉神社にしばらく安置されたと言うことです。
この時、神剣に似せて同じ剣を七振り作らせ、合わせて八剣を納めました。
この高倉神社を含め、八剣に由来する神社がこの辺りには複数あります。
熊鰐は神功皇后に大変気に入られていたようで、三韓征伐の後も、奈良の大和まで同行しています。
現在の春日大社の聖地は、もともとは熊鰐の土地だったと思っています。
春日大社は後に藤原氏に騙し取られてしまいますが、聖域である御蓋山は本来、「大倉主」と「菟夫羅媛」が住まう山だったのかもしれません。
高倉神社、とても神秘的なところです。
まだ僕が知らない、これほどの聖地が身近にあることが嬉しいです。
高倉神社から南に出たところに「高倉宮」とある鳥居があります。
古図で見ると、高津峯の麓にある頓宮のようです。
ここに一歩足を踏み入れると、空気が変わるのを感じます。
高千穂の「高天原遥拝所」や宗像の「高宮斎場」と同じ感覚です。
そう、そこにある石の台座と丸い石は、きっと神籬なのでしょう。
ここは年に一度、 10月12日
高津峯の神々が降り立ち、遊ぶ場なのだそうです。
こののどかな田園の側で、楽しそうに遊んでいる神々の姿が垣間見えるようです。