櫻井八幡宮〜神功皇后紀 8

投稿日:

p5020448-2017-05-18-21-20.jpg

武内宿禰は、暗闇の山道を歩いていた。

人知れず「橿日宮」を抜け出し、ひたすらに穴門を目指して、海を渡った。
懐かしい、「豊浦宮」が見えた時は思わず目頭が熱くなる。
しかし懐古に浸る時間はない。
一時も早く皇后の元へ戻らなくてはならなかった。
失ったものは大きかった。

心から忠誠を誓った大王が崩御なされた。
王の命を奪った者を許すわけにはいかない。
そしてまだ、大王が亡くなられたことを知るものは少ない。
大王の死を伏せ、一気に九州を平定し、そして新羅をも手中に収めるべきだ。
それが武内宿禰の考えだった。

聖地にたどり着いた男は火の無い暗闇で、王の亡骸を前に、しばしそっと目を閉じた。

b_ornament_24_0m-2017-05-18-21-201.jpg

p4180066-2017-05-18-21-20.jpg

【皇石神社】
9月に神託があり、その内容を認めなかった仲哀天皇は、熊襲征伐に向けて準備を進めていました。
「皇石神社」(おういしじんじゃ)のあたりでは、天皇と皇后が軍事訓練を見守っていたということです。

p4180067-2016-05-27-08-37-2017-05-18-21-20.jpg

長い階段を上っていきます。

p4180070-2017-05-18-21-20.jpg

ここで神功皇后は誓(うけい)をし、「願い叶うなら、この大石よ持ち上がれ!」的なことをやったみたいです。
その大石は今、本殿の地下に埋められているそうです。

p4180076-2017-05-18-21-20.jpg

神社の裏から丘に登る道がありました。
少し頑張って登ってみると、思いのほか展望が良かったです。
「相島」あたりの、海軍の訓練を眺めていたのかもしれません。

b_ornament_24_0m-2017-05-18-21-201.jpg

p5230002-2017-05-18-21-201.jpg

【御勢大霊石神社】
小郡市大保にある「御勢大霊石神社」(みせたいれいせきじんじゃ)は仲哀天皇が崩御された地との伝説があります。

p5230004-2017-05-18-21-201.jpg

仲哀天皇は神託を無視して熊襲征伐にとりかかりました。
熊襲を追って南下していた天皇は、宝満川と垢離川が合流する大保の地が白州で清浄たっだので、仮の陣を敷きます。
士気を鼓舞するため、近臣を従えて前線を回っていましたが、その帰る途中、黄昏時に敵の流れ矢に当たってしまいます。

p5230014-2017-05-18-21-20.jpg

近臣は驚いて天皇を仮宮へお連れしますが、間もなく息を引き取りました。

p5230010-2016-05-27-08-37-2017-05-18-21-20.jpg

「史蹟 仲哀天皇殯葬 伝説地」

p5230016-2017-05-18-21-20.jpg

時は激戦の最中、天皇の死は絶望的に士気を落としてしまうので、
仮に殯葬(ひんそう)し、死を隠して戦を続け、ひと段落した時にご遺体を「橿日宮」にお連れしたといいます。

p5230017-2016-05-27-08-37-2017-05-18-21-20.jpg

この立派なご神木の下には、天皇の御剣と御衣を収め、

p5230023-2017-05-18-21-20.jpg

天皇の御形代の石を据えました。

p5230025-2016-05-27-08-37-2017-05-18-21-20.jpg

古代では妻は夫を「背の君」と呼んでいましたが、
皇后も「御勢の君」と呼び、深い悲しみをここに残したのでしょう。

p5230005-2017-05-18-21-201.jpg

御形代の石から少し外れたところに、仲哀天皇の荒御魂を祀った「成末神社」がありました。

p5230007-2017-05-18-21-20.jpg

こちらも石が祀ってあります。

p5230019-2017-05-18-21-20.jpg

拝殿横には「粟島神の社」がありました。

p5230020-2017-05-18-21-201.jpg

b_ornament_24_0m-2017-05-18-21-201.jpg

p3281701-2017-05-18-21-20.jpg

【仲哀天皇御殯斂地】
仲哀天皇の死は、古事記、日本書紀などでは、神がかりした神功皇后の神託に背いたため、その後すぐに呪われ死んだように書かれています。
しかし地方の伝承では、「小郡の大保」で熊襲の流れ矢に射られて亡くなったと伝わっていました。
この辺りには「羽白熊鷲」(はじろくまわし)という熊襲のリーダーがいます。

p3281702-2017-05-18-21-20.jpg

さて、仲哀天皇のご遺体は、その死を隠したまま、武内宿禰がひとりで下関の「豊浦宮」まで密かに運び込みます。
「忌宮神社」で述べた「仲哀天皇御殯斂地」へ、仮埋葬するためです。

p3281706-2017-05-18-21-201.jpg

仲哀天皇の死を隠したのは、味方の士気を下げないためではありましたが、彼らには薄々知られてしまっていたことでしょう。
それよりも敵に知られてしまうことを恐れたのではないでしょうか。
敵とは、熊襲もそのひとつ。
そして神功皇后がこの時恐れた敵とは、仲哀天皇の別の后とその息子ではないでしょうか。
仲哀天皇には他に二人の后がおり、すでに三人の皇子がいました。
神功皇后にはまだ皇子がありません。
それら他の皇子が仲哀天皇の死を知って、今、後継者であることを主張されては、非常にまずいのです。

b_ornament_24_0m-2017-05-18-21-201.jpg

p5020477-2017-05-18-21-201.jpg

【仲哀天皇殯葬所】
「忌宮神社」からさらに山口の奥地、華山の山頂付近にも「仲哀天皇殯葬所」(ひんそうしょ)と伝わる場所があります。

p5020443-2017-05-18-21-20.jpg

武内宿禰は豊浦宮に一旦仮埋葬し、さらにこの華山までご遺体を運んだのでしょうか。

p5020444-2017-05-18-21-201.jpg

そこは山は深く、車で登ってもなかなか険しいところです。

p5020445-2017-05-18-21-201.jpg

火も焚かず、人知れず運んだとなれば、かなりの精神力と言わざるをえません。

p5020446-2017-05-18-21-20.jpg

とにかく車で登れるだけ登って、そこから15分ほど山道を歩きました。

p5020451-2017-05-18-21-20.jpg

すると、開けた場所にありました。

p5020457-2017-05-18-21-201.jpg

ひっそりと、人知れず、小さな祠がただひとつ。

p5020461-2017-05-18-21-201.jpg

鳥居の扁額には「櫻井八幡宮」とあります。

p5020463-2017-05-18-21-20.jpg

間違いなく、「仲哀天皇御殯葬所」です。

p5020465-2017-05-18-21-20.jpg

霞んでいますが、見晴らしはとても良いです。

p5020468-2017-05-18-21-201.jpg

仲哀天皇の御魂は、今もここから、懐かしい橿日宮を眺めているのでしょうか。

b_ornament_24_0m-2017-05-18-21-201.jpg

p5020481-2017-05-18-21-201.jpg

【櫻井八幡宮】
殯葬所からの帰途、華山から離れたところに「櫻井八幡宮」という看板をみかけました。

p5020482-2017-05-18-21-20.jpg

もしやと思い、尋ねてみるとやはり、殯葬所の遥拝所のようでした。

p5020484-2017-05-18-21-20.jpg

ほぼ無人の神社でしたが、たまたま氏子らしき女性がいらっしゃって、話をしてくださいました。

p5020485-2017-05-18-21-201.jpg

華山の殯葬所あたりは、ここ櫻井八幡宮の飛地境内となるそうです。

p5020486-2017-05-18-21-20.jpg

この八幡宮も随分歴史を積み重ねてきた雰囲気です。

p5020487-2017-05-18-21-20.jpg

拝殿内に上がらせていただきました。

p5020488-2017-05-18-21-201.jpg

天井の大きな、荒縄で作った伊勢エビが見事です。

p5020491-2017-05-18-21-20.jpg

田園が広がるこの地に、歴史の深さを垣間見ました。

p5020492-2017-05-18-21-201.jpg

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

w

%s と連携中