慶州〜神功皇后紀 27外伝

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10月3日。
神功皇后は和珥津から出発しました。
その時、神は波風を起こし、海原の魚が大小を問わず、ことごとく御船を乗せて進みました。
追い風が大いに吹いて、皇后の船は労することなく、すぐに新羅に到着しました。
やがてその御船の波が新羅の国に押し上がって、完全に国土の半分にまで達します。

新羅の王は恐れをなして、奏上しました。
「新羅の国を建てて以来、今でも昔でも潮が国に登るなんてことは聞いたことがない。天運が尽きて、国が海に成るというのか」
「わたしは聞いたことがある。 東の方に神の国があると。 名を大和という。
そこにいるという天皇の神兵に、どうして兵を挙げて防ぐことが出来るだろうか。」

新羅王は、大いに驚いて一戦も交えず降伏しました。
「たとえ太陽が西より出て、河の水が逆さまに流れるとも、皇國に叛くことなく、毎年貢物を献上致します。」
「これからは天皇の命令に従って、御馬を飼育する者となり、毎年貢物を載せた船を出し、船の底が乾く間もないほど献上致します。
天地のあらんかぎりお仕え致します。」

そのときに、皇后の部下の一人が言いました。
「新羅の王を殺しましょう。」
皇后は言いました。
「神のお教えを受けて、金銀の国を手に入れることになりました。
私は全軍に言い渡しました、『自ら服従するものは殺すな』と。
今、既に財の国を得ました。
新羅の人は自ら降伏しました。
殺す理由はありません」

皇后は、その新羅王を縛り付けていた縄を解きました。
皇后は矛を新羅の王の門に立てて、後の世の印としました。
その矛は今もなお、新羅王の門に立っています。

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【雁鴨池】(アナプチ):新羅時代の華やかな宮殿跡や庭園

現在の韓国に神功皇后の三韓征伐の伝承はほとんど伝わっていません。
そのような歴史は認められない、ということかもしれません。

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【瞻星台】(チョムソンデ):善徳女王時代の東洋最古の天文台。陰暦の1年を表す361個半の石でできている。世界遺産。

現在で言う、韓国の釜山から皇后軍は上陸し、慶州に至り、ソウルまで進行したと思われます。
しかし記紀もその辺りは、細かく記してはいませんでした。

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【大陵苑∙天馬塚】(デルンワン・チョンマチョン):慶州の中でも最も大きい古墳群。古墳から天馬を描いた馬の泥よけが出土したことから天馬塚と名づけられた。

神功皇后が新羅を目指した理由が、古代出雲王家の伝承をまとめた「出雲と蘇我王国」に記されていました。
神功皇后は辰韓の王子「天日槍」(あめのひぼこ)の子孫です。
356年、辰韓の王家が断絶し、家来が新羅国を興しました。
当時は領土も人民も王家の財産と考える時代でした。
そこで天日槍の子孫たる神功皇后は、新羅に対して辰韓の財産相続の権利を主張し、承認させようとしたというのが、この三韓征伐になるようです。

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【石窟庵】(ソクラム):仏国寺から山を登ったところにある石窟庵。石窟にある巨大な仏像は、韓国仏教美術を代表する傑作。世界遺産。

神功皇后は「出雲と蘇我王国」で記されるところの夫、「ワカタラシ大王」(成務天皇)に新羅出兵を求めますが、大王はこれに反対します。
その後二人の間は疎遠になりますが、大王は豊前国の岡県主に攻められて若くして亡くなったとあります。
皇后は次に豊前国出身の豪族「中津彦」(仲哀天皇)に協力を求めますが、彼にも断られます。
中津彦は長門で亡くなったとされます。
このあたりの富家の話は、実際に仲哀天皇の足跡を辿った僕としては、今ひとつ納得がいかない感じがあります。

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そこでさらに神功皇后は、日向で勢力を伸ばしていた武内宿禰の子孫、「日向襲津彦」(ひゅうがそつひこ)王に協力を求めました。
この日向襲津彦こそが神功皇后紀で語られる「武内宿禰」です。
襲津彦は皇后に協力を約束し、ついに新羅出兵へとなっていくのです。

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「出雲と蘇我王国」の中でも、新羅にたどり着いたおびただしい数の皇后軍船を見て、新羅王は戦わずして降伏したと云います。

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新羅王は毎年年貢を送ることを約束し、その契約を守るために人質を派遣しました。
莫大な富と成功を収めた神功皇后と武内襲津彦は、後に大和で優位な立場を築いていきます。

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神功皇后の三韓征伐の事実を示す、貴重な資料として「広開土王碑」(こうかいどおうひ)という石碑が中国にあります。
広開土王とは高句麗の第19代の王である好太王の事です。
そこに記されているのは

399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。
そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。
ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。

400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。
新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。
ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

という内容です。

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【仏国寺】(ブルグッサ):韓国で最も有名な寺。新羅全盛期の仏教芸術の傑作とも言われる。528年、仏の世界を現世に再現することを目的に建てられたが、16世紀末に起きた文禄・慶長の役で大半の建物が焼失してしまう。世界遺産。

以下はwikiから。

神功皇后 摂政5年(205年または325年)3月7日

新羅王の使者として、汗礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)らが派遣され、人質として倭国に渡った微叱旱岐(みしこち)の妻子が奴婢とされたので返還を求めるとしてきた。
神功皇后はこの要求を受け入れ、見張りとして葛城襲津彦を新羅に使わすが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられた。
怒った襲津彦は、毛麻利叱智ら三人の使者を焼き殺し、蹈鞴津(たたらつ。釜山南の多大浦)から上陸し、草羅城(くさわらのさし。慶尚南道梁山)を攻撃して捕虜を連れ帰った。
このときの捕虜は、桑原、佐備、高宮、忍海の四つの村の漢人の祖先である。

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神功46年以降

神功46年以降は『百済記』が構文されている。
神功46年(246年または366年)3月1日、斯摩宿禰を卓淳国に遣す。
卓淳王の末錦旱岐は、百済の久氐(くてい)、弥州流(みつる)、莫古(まくこ)らが日本に朝貢したいと斯摩宿禰に伝えた。
斯摩宿禰は、爾波移(にはや)と卓淳人の過古(わこ)を百済に遣した。
百済の肖古王(近肖古王)は喜んだ。
王は財宝を贈り、また蔵をみせて、これらを朝貢したいと爾波移に告げ、のち志摩宿禰らは日本へ帰還した。
翌年4月、百済は日本に朝貢した。

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神功皇后49年(249年または369年)

3月には神功皇后が、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を卓淳国へ派遣し、新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪(ささなこ)と沙白(さはく)・蓋盧(かふろ)らに合流を命じて、新羅を破った。
比自[火+保](ひじほ)、南加羅、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定した。
さら西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑は抵抗もなく降伏した。

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神功51年(251年または371年)

3月、百済は久氐を派遣し、日本に朝貢した。

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神功52年(252年または372年)

9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡と七枝刀を献上した。
なお、七支刀に彫られた「泰■四年」を太和4年とする説がある。
この場合、百済が朝貢していた東晋の年号太和4年とされるが、こちらの説の場合には秦の文字を太と書き換えねばならず疑問視する声もある。
また西晋の泰始4(268)年だという説もあり。
こちらは秦の文字が合致するのでこちらを主張する学者も存在する。

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神功皇后 62年(262年または382年)

葛城襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。
『百済記』によれば壬午(382)年、新羅は日本に奉らなかったため、日本は沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を派遣し新羅を討伐した。
しかし、沙至比跪は新羅の美女に心を奪われ矛先を加羅に向け、加羅を滅ぼす。
加羅国王己早岐、児白久至らは、百済に亡命する。
加羅国王の妹既殿至は、大倭(やまと)の天皇に直訴すると、天皇は怒って、木羅斤資(もくらこんし)を使わし沙至比跪を攻め、加羅を戻した。
また、沙至比跪は天皇の怒りが収まらないことを知ると石穴で自殺したともいう。

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内容もよくわかりませんが、どの程度正確な情報かもわかりません。
襲津彦が少々間抜けな男として記されています。

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ともかくも、目的を達した神功皇后は、満足して凱旋されました。

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僕もいろいろと満足して帰りたいと思います。

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この「ホットク」という焼きまんじゅう的な食べ物が僕的には大ヒットでした。

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黒糖と穀物の餡ともっちりした生地のハーモニーが絶妙です。

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市場では様々な食材が手に入りますが、

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その場で調理して提供もしてくれます。

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ふらりと入った「お茶屋さん」。

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韓国伝統茶を出してくださる「素花房」さん、素敵な茶屋でしたが、残念なことに閉店されたみたいです。

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