長崎市街地の中に、「鎮西大社 諏訪神社」と称えられる神社があります。
長崎の総氏神として親しまれ、長崎くんちにも由緒ある諏訪神社は、訪れてみるととても面白い所でした。
諏訪神社は入り口からして、とても荘厳です。
連なる鳥居と石段の参道。
そこはどこか懐かしい、ローカルさがあります。
脇に、「まよひ子志らせ石」(迷い子知らせ石)というものがありました。
祭事の際、人ごみにもまれて親を見失う子等が余りにも多いため、明治12年に長崎警察署に在勤する警部一同の手によって建立されたと云います。
祓戸神社も参道脇にありましたが、
ここの狛犬がユニークです。
逆立ちとちんちんをしています。
この狛犬、頭にカッパの皿が乗っています。
祓戸神社の向かいには、諭吉先生がいらっしゃいました。
さて、参道を歩いていると、明らかに人工的な形の石がいくつかあります。
一の鳥居付近のこれは、「男石」(陽石)。
四の鳥居付近のこれが「女石」(陰石)だそうです。
男性は女石、女性は男石を踏んだ後、拝殿前の両性合体石を踏んで参拝すると、縁結びの願い事が叶うそうです。
最後の階段が見えて来ました。
楼門をくぐります。
振り返れば、そこには長崎の街が。
そして拝殿前にあるのが「両性合体石」。
合体!
男子のロマンです。
拝殿へとやって来ました。
御祭神は
諏訪大神(建御名方神 / 八坂刀売神)
森崎大神(伊邪那岐神 / 伊邪那美神)
住吉大神(表筒之男神 / 中筒之男神 / 底筒之男神)
なぜ「建御名方」(タケミナカタ)が長崎の総氏神なのか不思議です。
建御名方といえば古代出雲王の血族で、北陸の「高志」を拠点に繁栄した一族です。
(記紀では国譲り神話でタケミカヅチに敗北して逃げたように、故意に描かれています。)
長崎は、どちらかといえば徐福・物部系の血が濃いと思われるのですが。
長崎は、戦国時代にイエズス会の教会領となり、1569年(永禄12)にはキリシタンによって長崎の神社や寺は破壊、焼き払われました。
諏訪・森崎・住吉の三社も、焼かれたり壊されて無くなっていたのを、1625年(寛永2)に初代宮司「青木賢清」によって再興されました。
さらに、1648年(慶安元年)に徳川幕府によって、現在の鎮西無比の荘厳な社殿が造営されました。
参道の祓戸神社もそうでしたが、諏訪神社の広い境内にはユニークな狛犬が多く、一見の価値があります。
拝殿左側の斎庭に回ると、「止め事成就の狛犬」が置いてあります。
止め事に霊験があるといわれ、足には禁酒・禁煙・受験のすべり止め等の祈願を込めたこよりがたくさん結び付けられています。
なんだか一昔前の女子高生のニーソみたいです。
この先は神域のようで、立ち入り禁止になっています。
拝殿左の奥に「高麗犬の井戸」があります。
「銭洗い井戸」とも呼ばれ狛犬の口から湧き出る水でお金を洗うと倍に増すと言われています。
更にこの水を飲むと安産に霊験あるそうです。
拝殿の下をくぐり、右側に出ると凛々しく睨む狛犬がいます。
「願掛け狛犬」と呼ばれ、狛犬が回るようになっています。
その昔、遊女が船乗りの客を帰したくない時、嵐が来るように狛犬を海の方向へ向け祈願したところからこの名がついたようです。
願掛け狛犬の背後には、弁財天の祠がありました。
さらに進むと神々しい本殿の屋根が見えます。
そこに「蛭子社」(ひるこしゃ)があります。
そこに鎮座する狛犬は「カッパ狛犬」です。
カッパは水の神とされています。
ここの御祭神「少彦名」も、祓戸神社の神「瀬織津姫」も水神です。
スクナヒコも古代出雲ゆかりの神です。
長崎と出雲は繋がりがあったのでしょうか。
頭に皿に水を掛けて「水上安全」や子供の「水泳上達」祈願します。
本殿の玉垣内からは、清らかな風が吹いていました。
蛭子社の横には稲荷社の参道が続きます。
地面の苔と朱い鳥居のコントラストが美しい参道です。
参道横には「厳島神社」があります。
その先に「石造狛犬」があります。
非常に古くからあるもののようで、風化し、侘びた佇まいを見せています。
参道を抜けると、大きな楠がありました。
「抱き大楠」(いだきおおくす)と呼ばれ、多くの人がここで大楠を抱き、自然の力を感じるそうです。
稲荷社
右側には塚があり、
左側には大きな「厄難除け蛙岩」があります。
昭和57年の長崎大水害の折、裏山が崩れ落ちますが、この蛙岩が土砂を防ぎ止め、ご社殿を守ったそうです。
「厄難除け」として、また「出したお金もまたかえる」「旅行から無事かえる」と信仰厚く今に続きます。
蛙岩の上にちょっときになる石碑がありました。
隠れるように階段があったので上ってみると、
石碑の先に、神々しい大樹が見えます。
なんとなく訪れた諏訪神社でしたが、盛りだくさんの霊験に、お腹一杯になりました。