逢坂〜神功皇后紀 38

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「我々は優勢でございます。
畏れながら、騙し討ちとは納得がいきません」

若く猛る武者、武振熊は物怖じせず、武内宿禰に真っ直ぐに告げた。

「うむ、だが一刻も早く、忍熊王を打ちとらねばならない。
これは皇子様のお命に関わることなのだ。
皇子様の熱は続いておる。
今すぐ戦を終わらせ、氣比の宮にて祈祷をせねばならない。」

戦略とは言え、物部は皇子を亡くなられたと偽り報じた。
その奇策により、確かに皇后軍は優勢に立ったが、それからというもの、皇子は容体が思わしくない。
高熱が出た後、微熱が続き、幼い体は徐々に力を失いつつある。

「黄泉つ神が取り憑いてしまったのかもしれぬ」

神功皇后は皇子の熱い体を撫でながら、武内宿禰に言った。

「私はもうこれ以上、皇子を失うわけにはまいりません。
私が以前いた、氣比の宮に行けば、この子は救われるでしょう。」

「もう、とは?」と武内宿禰が疑問を投げかけると、皇后は驚くべき秘密を語り始めた。

「私が皇子をもうけたのは、この子が初めてではありません。
天皇に嫁ぐ前、氣比の宮にいた時にもう一人、皇子を産みました。
その子に父はおりません。
いや、その子の父親は、今思えば、あの大神だったのでしょうか。

私は巫女としての力を得るために、神と密事の儀式を行いました。
儀式の時、私を襲った大きな力。

それから間もなく、私は最初の皇子を授かりました。
しかしその時はまだ私は幼く、母となる準備ができておりませんでしたので、子も幼くして産まれてしまいました。
その姿はまるで海の神と人の形を合わせたような姿で、まるで弓具の鞆(ほむた)のようでした。
その子は一呼吸したかと思えば、そのまま動かなくなってしまったのです。

私はその子に譽田別と名をつけ、氣比の宮に祀りました。
去来紗別と名付けたこの子と、神となった譽田別の名を儀式にて交換できれば、
黄泉つ神も迷って去り、この子と神はより一層強く結びつくことでしょう。」

武内宿禰は、あまりの話にすぐには言葉が出ない。

「姫様、この話は他の者には…」

「もちろん、大王にはおろか、誰にも話しておりません。
当時の神官と、ごく側近の者、そして亡くなった私の父だけの秘密です。」

「…畏まりました。
この武内、いかなる手を尽くしてでも、疾くこの戦を終わらせ、皇子様と姫様を氣比の宮へお連れいたします。
そして我が生涯をかけて、姫様が語ってくださった秘密と、皇子様を守りましょう。」

今、武内宿禰と武振熊が率いる皇后軍と、忍熊王の軍は小高い峠の坂の上で相対していた。
忍熊王の軍が決定的な敗北をするこの丘は、以後、逢坂と呼ばれることになる。

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【逢坂の関】

「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」

京都と大津の間にある古代の関所「逢坂の関」は、古来より歌人にも愛された関です。

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本来、逢坂の関があった場所というのは分からなくなってしまったようです。
現在「逢坂山関址」の石碑があるのは、京都と大津を結ぶ小高い峠の上になります。

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ある時、清少納言のもとへやってきた「藤原行成」(ふじわらゆきなり)は、
しばらく話をしたあと、「宮中に物忌みがある」と言って早々と帰ってしまいます。

翌朝、行成は「鶏の鳴き声にせかされてしまって」と言い訳をしますが、
清少納言は「うそおっしゃい。中国の函谷関(かんこくかん)の故事のような、鶏の空鳴きでしょう」と答えました。

「函谷関の故事」とは、秦国に捕まった孟嘗君が逃げるとき、一番鶏が鳴くまで開かない函谷関の関所を、部下に鶏の鳴き声を真似をさせて開けさせ、無事逃げおおせたというものです。

そして行成は「関は関でも、あなたに逢いたい逢坂の関ですよ」と言います。

そこで歌われたの冒頭の歌です。
「夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴き真似をして人をだまそうとしても、私の逢坂の関は決して開きませんよ。」という意味です。

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見事してやられた行成ですが、この二人はとても仲の良い、親友のような関係でした。
友達以上恋人未満の、甘酸っぱい、大人の遊びだったのでしょう。

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さて、「逢坂の関」ですが、逢坂の名の由来となったのは、「武内宿禰」と「武振熊」(たけふるくま)が率いる皇后軍が忍熊王軍に最終局面の戦に勝利し、
追い詰めて出逢った場所だからと云います。

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ここでもはや勝ち目のなさを悟った忍熊王は、後に琵琶湖畔の瀬田川に身を投げます。

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逢坂山関址の石碑そばに「車石」というものがありました。

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逢坂のあたりは雨の降る日は大変な難所であったようです。
そこで京都の脇坂義堂という人が一万両を投じ、大津から三条大橋までの12kmの間に車の轍を付けた切石を敷き詰め、牛車専用道を造ったと云うことです。

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【蝉丸神社】
逢坂の関には3つの蝉丸と名のつく神社があります。
神功皇后の伝承とは無関係ですが、ここで紹介しておきます。

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「蝉丸」と言えば琵琶の名器・無明を愛用していた歌人として伝えられていますが、その人物像は不詳で、醍醐天皇の第四皇子、あるいは宇多天皇の皇子・敦実親王の雑色などとも伝えられています。

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蝉丸の名のつく神社は、「関蝉丸神社」の上社と下社があり、
その分社となっているのがここ、「蝉丸神社」となります。

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蝉丸は歌舞音曲・芸能の祖神として崇められ、その3つの社前には神楽殿が設けられているのも特長です。

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盲目だった蝉丸が開眼する逸話にちなみ、眼病に霊験あらたかで、髢(かもじ・髪の毛)の祖神ともいわれています。

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「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」

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【関蝉丸神社 上社】
さて、ここからは関蝉丸神社の上社と下社の写真を紹介しながら、
神社とは全く関係ない神功皇后に関わる話を進めていきます。

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まずは「武振熊」(たけふるくま)のこと。
3月5日、神功皇后は武内宿禰と「和珥」(わに)の先祖、武振熊に、数万の兵を率いて忍熊王を討伐するよう命じます。

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「和珥」一族とは道行きの神「猿田彦」と縁深い一族で、安曇族と同じく海人族の雄です。
一族は今の奈良、天理市あたりを拠点とした豪族で、葛城族と同じく多くの謎に包まれた一族です。

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5,6世紀時代に天皇家と姻戚関係を結び,多くの后妃を輩出します。
「朱」を生業とする一面もあり、奈良の春日に至って、春日大社を創設したと伝わります。

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その和珥の祖、武振熊に攻撃を受けた忍熊王軍は宇治までやってきます。
そして忍熊王は陣営を出て戦おうとしました。

その時、武内宿禰は全員に髪を椎(つち)のように結わせ、髪の中に弓の弦をかくし持たせ、
更に鉄の剣ではなく木刀を腰につけさせます。

すると武内宿禰は忍熊王をだまして言いました。

「私は天下をむさぼるつもりもなく、ただ、幼い皇子を抱いて、あなたに従うだけです。
戦うつもりはありません。
願わくは、お互い一緒に弦を切って武器を捨て、和睦しましょう。
君王は皇位につき、安らかに政治をさなればよろしいのです」と。

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武内宿禰はそう言うと、兵士に命じて、全員に弓の弦を断ち切らせて、太刀をはずして、川に投げ入れさせます。
忍熊王は偽りを素直に信じて、自分の軍勢に命じて、同じように武器を川に投げ入れて、弓の弦を切らせました。

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すると、武内宿禰は号令をかけて、髪に隠した弦を弓に張って、鉄の真剣を付けさせました。
そうして、忍熊王軍を一斉に攻撃したのです。

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忍熊王は騙された事に気づいたときには、既に遅く、惨敗を喫します。
武内宿禰はさらい追いかけ、逢阪で追いつき、討ち破ります。
それで、その地を「逢坂」と言うようになりました。

死期を悟った忍熊王はついに琵琶湖の湖畔の瀬田川で身を投げて死ぬのです。

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瀬田川で忍熊王の遺体を探せど見つからない武内宿禰は戸惑いますが、やがて上流で続く「宇治川」で遺体が見つかり安堵します。

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【関蝉丸神社 下社】
ついに忍熊王を打ち取った武内宿禰は、その後、不思議な行動をとります。
敦賀の「氣比神宮」に神功皇后の皇子である応神天皇を連れて行き、氣比の大神と名前の交換をさせます。

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冒頭ストーリーで、神功皇后が秘密を暴露するシーン、これは全くの僕の創作です。
幾つかの神功皇后と応神天皇にまつわる不可解な伝承を見ているうちに思いつきました。

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住吉大社の神官が大社の由来を神祇官に言上した解文であるとする「住吉大社神代記」には、
神功皇后が住吉大神と「密事」があり、夫婦の間柄となったとあります。
これを、仲哀天皇崩御後から神功皇后出産までの期間が長すぎるという主張と合わせて、
住吉大神とは武内宿禰のことで、応神天皇はその二人の子であるという説もあります。

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事実はそうだったのかもしれません。
が、僕はもう少しロマンティックに創作してみました。

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応神天皇の名は「誉田別尊」(ほむたわけのみこと)と言い、それは天皇が生まれた時、その腕の肉が弓具の「鞆」(ほむた)のように盛り上がっていた事に由来していると言います。
応神天皇は神功東征がなった折、武内宿禰に連れられて、敦賀の氣比神宮の大神と名を交換したと伝わります。
氣比神宮の大神の名は「去来紗別尊」(いざさわけのみこと)と言いますが、もともとは応神天皇が「去来紗別」であり、氣比大神が「誉田別尊」だったということになります。

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ここで気になる「ほむた」ですが鞆は「ほむだ」「とも」とも呼ばれ、弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放ったあと弓の弦が腕や釧に当たるのを防ぐ道具になります。
その形状はまるで勾玉のようです。
で、ちょっと連想してしまったのですが、「ほむたのような形の神」とは「胎児のような神」ということではなかっただろうかと思い至りました。
胎児は勾玉のような形をしていて、そして人の祖先が海洋生物だった頃の名残を残していると言います。

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それでぐっとこれらをまとめ連想すると、
神功皇后は仲哀天皇に嫁ぐ前、海神の住吉大神と密事を行い、ほむたの形のをした胎児を産み落としていた、なんて創作をしてみました。
その住吉大神は、後に仲哀天皇を祟り殺し、また三韓征伐においては皇后の身を守り続けたのです。

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美しく聡明ながらどこか影を帯びていた神功皇后。
彼女は人々に神秘性を感じさせていましたが、しかしそれは人知れず切ない過去を背負っていたからに他ならず、
ここで失った神子と皇子の間に、名の交換という繋がりができたことにより、
若く、か弱い「女性・神功皇后」のささやかな救いがあったと結びたいと思います。

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広大な琵琶湖に注ぐ「瀬田川」です。
戦に敗れ、死期を悟った忍熊王は、ここで入水します。
長かった神功皇后の旅は、ようやく終着駅へとたどり着こうとしていました。

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