松尾大社

投稿日:

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上賀茂神社・下鴨神社と共に京都で最古の神社と云われる「松尾大社」に足を運びました。

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京都の人は東京は「東の都」、京都は「都の中の都」と言うそうです。
それは794年から明治2年まで(諸説あり)、日本の首都であった都だから、だそうです。

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また、京都は古き良き日本の象徴ともされ、昔ながらの風情をあちこちに残しています。
かつては僕もそう感じていました。
しかし古史を旅していくと、京都でさえ新しい都だと感じてしまうようになってしまいました。
真に古い大和の都は、それは奈良であり、出雲であり、九州北部であったりして、
京都は煌びやかな、新都であると感じるようになりました。

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今回、京都を散策しても、神社などの創建は平安時代前後で、わりと新しい、と思ってしまいます。
さて、松尾大社です。
「両流れ造り」の美しい本殿と伺いましたが、

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なんと、神門を含め、修復中でした。

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松尾大社の由来では、もとは背後にある松尾山の神霊を山頂近くの磐座に祀ってきたそうです。
それを渡来人「秦忌寸都理」(ハタノイミキトリ)が、大宝元年(701年)に社殿を構え、神霊を移して祀ったのが起源だと云います。
秦忌寸都理…そう、秦氏です。

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秦氏は謎多き一族と云われていますが、古代出雲伝承を紐解くと、その実態が見えてきました。

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秦氏は朝鮮からの帰化人だとよく云われていますが、秦氏の秦は支那秦国の秦です。
秦の始皇帝の時代、徐福とともに渡来した一族が、秦氏と呼ばれています。
彼らは製鉄・養蚕・漢方など、様々な技術と文化を日本にもたらしました。
ただ、秦氏と呼ばれる彼らが生粋の秦人であるかというと、そうではなく、秦が六国を滅ぼし支那を統一する中で最後まで抵抗したとされる「斉」(せい)の民であったと云います。
彼らは「イスラエルの失われた10支族」の末裔であったそうで、彼らの関わった日本の神社にはイスラエルの六芒星が残されていることがあるようです。

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御祭神は「大山咋神」(オオヤマクイノカミ)と「市杵島姫」(イチキシマヒメ)です。
市杵島姫といえば宗像三姉妹のひとりです。
なぜここに祀られているのか。

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大山咋神が秦氏の祖神「徐福」のことであるとしたなら、その関係にも納得がいきます。
徐福は二度、日本へやってきますが、最初の渡来では西出雲へ上陸し、「火明」(ホアカリ)と名乗ります。
そして出雲王「大国主・八千戈王」の娘「高照姫」を妻に迎えます。
やがて徐福は妻子を出雲に残し、祖国秦へ帰っていきます。

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徐福が再び渡来したのは有明海の佐賀平野でした。
そこで徐福は「饒速日」(ニギハヤヒ)と名乗ります。
そして妻に迎えたのが出雲王家の分家である宗像「吾田片隅」(アタカタス)王の娘、宗像三姉妹の末の「市杵島姫」でした。

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ちょっと疑問なのは、大山咋神の伝説によると、「丹波の開拓に尽力した」とあるので、大山咋神は徐福というよりは、その出雲での息子「五十猛」(いそたけ)のことであろうと思われます。
五十猛らは丹波に移り、海部家(あまべけ)の祖となって開拓します。
やがてその子孫たちが秦氏として、丹波から山代へ移住してきて、精錬、養蚕、醸造などの技術を太秦界隈にもたらし、やがて大きな力を持って松尾大社を建立したのでしょう。
とするなら、市杵島姫を祀るのではなく、母の高照姫、もしくは妻の大屋姫を祀るのが筋ではないでしょうか???
よくわかりません。

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松尾大社の裏にある山中には古代から祭祀されてきた磐座があるそうです。
ただ有料であるのと、二人以上でなければ登山できないこと、撮影等はできないなどの理由で参拝は諦めました。

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松尾大社といえば、「酒造の神様」です。
亀と鯉が神使であると云います。
残念ながら下戸な僕ですが、酒の神といえばどうでしょうか、三輪山の事代主の方が一枚上手なように、僕は感じます。

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4件のコメント 追加

  1. たぬき より:

    徐福さまの第一次渡来時(西出雲~石見地方)には二千人を引率してきたそうです(第二次渡来(九州に上陸)の際には三千人)。
    大出雲王国の簒奪に失敗した徐福が母国に逃げ帰った際には
    そのほとんどが置き去りにされたとか。
    後、徐福(徐市)と出雲の富王家の高光姫(八重波津身の姉妹)の御子の五十猛/海カゴヤマは
    その取り残された秦国人を改めて糾合して母親の高光姫や大家姫(高光姫の姪?)らと共に丹波に入植して開発。

    勢力(大丹波国)を蓄え、丹波人(秦国人?)らを武装させ、
    出雲族らがそれに先立ち入植開発した大和地方に南下して入植(屯田?)させます。(山城国=京都市周辺はその経路(円山川~保津川?、、、桂川、、、淀川~木津川~古奈良湖)であり、補給場所/拠点だったか?)
    当時は京都盆地も広大な湖沼が広がっていたかもしれません。
    それゆえに高台?に拠点を構えたか(京都盆地の地下水量は現在も琵琶湖に匹敵すると言われる)

    父のカゴヤマから御子の海村雲に引き継がれて
    結局、都合一万人の丹波勢が大和地方に流入して威勢を張った
    (当時は奈良盆地の低地、平野部はほとんどが湖沼(古大和湖)だったようです)事から

    先住の出雲神族らを圧倒するに至り、彼らから大和の大王に推戴されて初代大王に即位
    、、、

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      奈良盆地が往古には湖沼であったという話は知っていましたが、京都盆地もその可能性があったとは、思い至りませんでした。
      そういえば、長野の諏訪湖も、かつては盆地を覆うほど水位が高かったと云います。
      各地に散った出雲族が、それぞれ大きな湖沼の高台に移住したというのは、面白い偶然ですね。

      ところで、なぜ徐福は、二度にわたって日本に渡来したのか。
      一度目の渡来で不老不死の妙薬を見つけられず秦国へ戻れば、始皇帝に殺される可能性もあったのに。
      そして当時の二度もの渡海そのものが、多分に危険をはらんでいたというのに。
      それは、彼の連れてきた計5000人の童男童女にヒントがあると思いました。
      彼は秦人ではありますが、それは始皇帝が統一を果たした後の事。
      元は秦が最後に滅ぼした斉国の人でした。
      つまり生き残った徐福の民も、始皇帝に殺される可能性があったのです。
      徐福が出雲王に成り代わろうとしたという説もあるようですが、それならば危険を冒して秦国に戻った理由が見つからず、
      彼は単に故郷の子供達を、平和な日本に連れ出そうとしたとすれば、この説明がつくように思われます。
      出雲を我が物にしようとしたのは、徐福ではなく、彼の威を借りた穂日らだったというのが、僕の見解です。

      いいね

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