京都は太秦にちょっと変わった鳥居があります。
「木嶋坐天照御魂神社」(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)というのが正式名称ですが、
「木嶋神社」(このしまじんじゃ)「蚕ノ社」(かいこのやしろ)と呼ばれて親しまれている神社です。
「秦氏」にゆかりの神社で、機織と養蚕の神を祀ります。
御祭神は
「天之御中主神」(アメノミナカヌシノカミ)
「大国魂神」(オオクニタマノカミ)
「穂々出見命」(ホホデミノミコト)
「鵜茅葺不合命」(ウガヤフキアエズノミコト)
「瓊々杵尊」(ニニギノミコト)
と、錚々たる五柱の神々となっています。
しかし本来は社名が表すように、「天照御魂神」(アマテルミムスビノカミ/アマテルミタマノカミ)」を祀った神社ということでしょう。
この「アマテル」という神、「アマテラス」とは別の神と考えた方がよいようです。
この「アマテル」については様々な説が唱えられていますが、「先代旧事本紀」に記されている「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)が、全てを説明していると思われます。
つまり「アマテル」は「ホアカリ」であり「ニギハヤヒ」であるというのです。
それら全ての呼称が示す人物はただ一人、「徐福」です。
徐福は秦氏の祖神です。
木嶋坐天照御魂神社にて、注目すべきは本殿の横にある「三柱鳥居」(みはしらとりい)です。
三つの鳥居が三面に組み合わされた形をしています。
鳥居の下は元は神池だったようで、水に満たされていたそうです。
この形はキリストの三位一体を表しているとか、ユダヤのダビデの星を表しているとか色々云われているそうですが、真相はわかっていません。
秦氏は謎が多い一族です。
秦氏は応神天皇の頃に渡来した「弓月君」(ユヅキノキミ)を祖としていると伝わっています。
中心の石が積まれた場所は「神座」で宇宙の中心を表していると云います。
この形の鳥居はとても珍しいのですが、他にもいくつか見ることができます。
僕は奈良の大神神社の参道沿いや、対馬の綿津見神社などで見かけました。
岐阜や東京にもあるらしいです。
境内横にはひっそりとお稲荷さん。
ここも小さいけど、神気が深い場所でした。
鳥居の形が表と三柱鳥居で違うんですね。(神明鳥居と明神鳥居)
この形だと、大神神社と同じ鳥居になりますね。
ただし、おそらくですが大神神社と逆になっていると考えられます。
大神神社の講ですが、晴明殿に属さない派閥があります。
神社参道が始まるところには、3つ鳥居の写しと思われるものが鎮座します。
それだと3つ鳥居の方が神明鳥居になっていましたね。
社殿は伊勢神宮からの古材の面影が窺われるので、千木だけではもうなんともいえませんが
出雲フィルターが厚すぎて、出雲式のものに見えてしまう私w
しかし地籍で見ると太秦とか、めっちゃ秦氏系なんですね。あと聖徳太子もゆかりの地?
確か、ここら辺の近くの国道が、鯖街道といって、小浜市方面に向かう事ができ、途中に安倍氏の疎開先、土御門神社本庁、安倍氏の\疎開先があります。
昔の出雲脱出ルートってこのルートだったのかもしれませんね。
京都のあの配置で、秦氏系の地名や神社が残ったということは、東征事件以降は、特定の氏族を対象とした古式の争いは次第に少なくなっていったんでしょうね。
いいねいいね: 1人
大神教本院の三つ鳥居は確かに神明鳥居ですね。
あまり神々しさやらは感じませんでしたが。
安曇の聖地、対馬の和多都美神社にも神明造の三つ鳥居があって、その下には「磯良恵比須の磐座」というものが祀ってあります。
そういえば、安曇と大彦の繋がりを思わせる伝承がありました。
京都松尾大社の摂社である月読神社ですが、「日本書紀」によると487年、阿閉臣事代が任那に使いに出された時、壱岐島で月神が憑りついて「私は月神である。私を京都にまつれ。もし、私がいうようにすれば日本国中が幸せになるだろう。」と宣託をしたとあります。
これを天皇に奏上し、壱岐の県主「忍見宿祢」に命じて、壱岐島から月神を勧請して葛野坐月読神社を創建したそうです。
阿部氏と安曇氏の裏取引があったんじゃないですかね。しかも月神信仰については記載の少ない記紀において、あえて書かれていることも気になります。
いいねいいね