滋賀県大津市の穴太(あのう)、住宅地に挟まれるように「高穴穂神社」(たかあなほじんじゃ)があります。
ここは、今から約2000年前、第12代景行天皇が築いた「志賀高穴穂宮」(しがのたかあなほのみや)があったと云われています。
志賀高穴穂宮は大津で最初の都と伝えられており、「古事記」に「若帯日子天皇(景行天皇)、近つ淡海の志賀の高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき」と記されています。
雨降る境内は、都というにはあまりに質素で、こじんまりとしています。
景行天皇は物部大和王朝の2代目の大王ですが、民の支配力は弱く、自ら将軍のように西に東に統治に出かけなくてはなりませんでした。
そこで恭順するものは生かし、反抗するものは虐殺したと云います。
また恭順する一族には、その証として女王・姫巫女に自らの子種を残し、血族による統治を目指したそうです。
時として暴虐非道の王と思われてきましたが、落ち着いた王の風格をもっていたとも記されています。
物部一族は支那秦国の渡来人の末裔ではありますが、その真は、秦国に滅ぼされた「斉」の国の末裔です。
その渡来人の祖王が「徐福」であり、祖国を侵略され、九州の佐賀平野に逃れて住み着いた一族です。
中央への進出を謀るも困難を極め、豊王国の協力を経てようやく念願が実現したのが、景行天皇の前王「生目大王」(いくめおおきみ)でした。
しかし俄かの新王朝に恭順する豪族は少なく、早急に盤石な血縁を各地に結ぶ必要があったのです。
そうした景行天皇の遠征の話は、万世一系の歴史を創出したい記紀の製作者によって隠され、天皇の御子「ヤマトタケル」の神話として創作されました。
悲哀・悲劇に富んだヤマトタケルの話は、大半が地方に伝わる話のつなぎ合わせでしょうが、景行天皇の遠征の壮絶さを物語る一面もあると思われます。
ヤマトタケルは能褒野の地で亡くなったとされていますが、天皇はここ高穴穂宮で天命を全うしたと云います。
しかし、その宮跡はあまりに質素で、そしてそれが象徴するように、物部大和王朝も次代の「ワカタラシ大王」の死で途絶えてしまいます。
物部王朝の跡を継いだのが彼の后であり、天日槍の末裔、かの「神功皇后」であり、その御子とされた「応神天皇」でした。