猪目洞窟 / 伊奈世波岐神社:八雲ニ散ル花 09

投稿日:

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島根半島の西側にある、鷺浦(さぎうら)は長閑な港です。

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その辺りの鵜鷺(うさぎ)地区は海と山に囲まれた小さくて静かな海辺の町で、古くは北前船の寄港地として栄えた場所でもあります。

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その一角に「伊奈世波岐神社」(いなせはぎじんじゃ)があります。

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ここは、歴史の伝承と裏腹に、とても雰囲気の良い神社でした。
裏腹とは何故か、それはここの祭神に関係があります。

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伊奈世波岐神社の祭神は、その名の通り「稻背脛命」(イナセハギノミコト)です。
それにとってつけたように、「八千矛神」「稲羽白兎神」「稲羽八上比売神」を合祀しています。
稻背脛命とは誰なのか?
社頭掲示板の由緒をそのまま写してみます。

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御祭神の主な事跡
御祭神の稲背脛命は亦の御名を大夷鳥命・天鳥船命といい出雲国造の祖神、天穂日命の御子であります。
天照皇大神の勅を奉じて建御雷神等と共に稲佐の浜に降りて国譲り神勅を大国主神に伝え給うた時に大国主の御子、事代主神は狩猟に美保関に出かけていたので稲背脛命が使いをされて事代主命を呼び還し国譲りについての諾否を問い給い、国譲りが武力によらずして平和理に解決されました。
この事は稲背脛命等の奔走の賜でありましてその御功績は偉大であります。
又父神天穂日命の後をうけて大国主神の祭祀に仕えられました。

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こういうことです。
御祭神の稲背脛は出雲国造の祖神、天穂日の子のことです。
天照大神の勅を受けた建御雷神たちは稲佐浜に降り立ち、国を譲るよう大国主に伝えましたが、大国主の御子、事代主は釣りに美保関へ出掛けていました。
そのため、稲背脛が使いに出て、事代主を呼び還し、国譲りについての諾否を問いました。
国譲りが武力によらずして平和裡に解決された事は、稲背脛の奔走の賜であり、その功績は大きいといえます。
また、父天穂日の後を受けて大国主の祭祀に仕えました。

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これは出雲王国の人たちを、あまりにバカにした内容です。
稲背脛とは穂日の子「夷鳥」(ヒナドリ)のことです。
穂日と夷鳥は、世話になった出雲王への恩を仇で返すように、大国主「八千矛」王と事代主「八重波津身」副王を大勢で拉致し、孤島の洞窟に監禁して枯死させたのです。
その非道をもって「稲背脛の奔走の賜であり、その功績は大きい」と言っているわけです。
また国譲りとは物部族による出雲王国の滅亡と征服であり、当然武力によって為されています。
しかもその物部族を影で導いたのは、穂日の末裔だったと云います。

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稲背脛の「いなせ」とは「否・是」のことで、自分たちに従うか、従わないかを問うた神という意味の名です。
大国主と事代主は、おそらく「否」も「是」も問われることなく、非業の死をもたらされたのだと思います。

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王家直系の子孫という「富家」の話では、事代主は伊奈世波岐神社に連れてこられて洞窟に閉じ込められたとありましたが、それは事代主ではなく、大国主であったと思われます。
伊奈世波岐神社にほど近い場所に、大国主殺害に関連した霊跡が2ヶ所あるからです。

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伊奈世波岐神社から東へしばらく行くと、猪目(いのめ)という海岸に着きます。

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そこは奇怪な岩場などあり、夢に出て来そうな風景です。
しかし、決して夢で見てはなりません。

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なぜなら、ここにある「猪目洞窟」は黄泉の穴と呼ばれており、この洞窟に行く夢を見たら必ず死んでしまうと言い伝えられているからです。

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大きな岩が道路の端に見えたかと近づいてみれば、

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大きな洞窟でした。
これが猪目洞窟です。

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そう、この猪目洞窟こそが、大国主が幽閉され、枯死するに至った洞窟なのです。

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洞窟は降りていくことができます。

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洞窟内はごちゃごちゃした印象です。

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それもそのはず、この洞窟遺跡は、1948年(昭和23年)に、漁船の船置場として利用するため入口の堆積土を取り除いた時に発見されましたが、そのまま船置場として利用されています。

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凝灰岩の絶壁にできたこの洞窟は、東に向かって開口しており、幅約30m、奥行き30mあるそうです。

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断層もくっきり見えるこの遺跡からは人骨が13体以上見つかっており、特に注目されるものとして は、南海産のゴホウラ製貝輪をはめた弥生時代の人骨や、舟材を使った木棺墓に葬ら れた古墳時代の人骨、稲籾入りの須恵器を副葬した人骨などだということです。

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洞窟の奥には、小さな社がありました。
その上にはシダ系のものと思われる植物が垂れ下がっていますが、まるでここは深海の墓場のような雰囲気です。
今は道伝いに普通に訪れることのできる場所ですが、太古には舟からしか近寄れない、そんな洞窟だったのでしょう。

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これ以上は立ち入るなと言わんばかりの石柱が立っていて、その奥は正に幽界に続いているようです。
この「黄泉の岩屋」の話は、当時の奈良の都にも聞こえて、出雲は「黄泉の国」だと言われるようになった所以だと云います。
「記紀」ではイザナミとイザナギの神話に変えられています。

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奈良時代までは、都の貴族も出雲王国の大国主と事代主のことを覚えていてよく語られていましたが、権力の元に日本書紀が世に出ると、出雲王国のことを人々は話さなくなったと云います。
都の貴族たちの中には、海部王朝や物部王朝の子孫が多かったので、この出雲王と副王がどのように死んだか知っていました。
そして時の都の政府関係者は、物部勢力が出雲王朝を滅ぼしことを覚えていたので、かれらは大国主と事代主の怨霊を非常に恐れていたそうです。
古事記で、スサノオが天照大神(出雲の太陽の女神)の耕作田の畔をこわし、用水溝を埋め、新米のご飯を供えた神殿に排泄物をまき散らしたと記しているのは、スサノオの子孫が出雲王国を滅ぼしたことの例え話を暗示しているのだそうです。

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伊奈世波岐神社を西に向かったところに、ちょうど鷹取山と竜山、太々山の合わさる辺りに「御陵神社」と呼ばれる場所があります。

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神社とは名ばかりに、思わず通り過ぎてしまうような古びた鳥居があるばかりです。

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その背後には、あまりに巨大すぎてすぐには理解できないほどの磐座があります。

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この磐座の下に、大国主、八千矛王は丁重に葬られたと、ひっそりと伝わっています。

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穂日の子孫「出雲臣果安」(ハタヤス)は出雲国造でとして力を持っていましたが、国造の役職は廃止となり、意宇郡(おうぐん)の郡領に格下げされることになりました。
この時、果安は失業する可能性があることを知り神社の神職になりたいと考え、旧出雲王家の向家(富家)に「出雲神を祀る神社を建てて、共同で運営したい」と申し出ます。
向家は出雲王の神を祀り、主祭神を変えない条件で、出資する約束をしました。
果安氏は向家との約束を守らず、自分たちの祖である天穂日の主人であったスサノオを主祭神にしようと謀っていました。
しかしそれが時の右大臣「藤原不比等」に知られてしまい、大国主を祀るよう厳命を受けます。

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果安氏は神門臣家に出向き、八千戈王の神霊を祀りたいと申し入れます。
出雲大社は当初、宍道湖の西岸に建てられる予定でしたが、神門臣家の勧めで八千戈王の遺体を埋葬した竜山の磐座を遥拝する今の場所に建設することが決定されました。
向家は領地の一部を売って出雲大社の境内地と神職達の屋敷の式地・家屋を購入する資金にしました。
神門臣家は領地内の材木を切り出し、運び、大工などの人件費を負担し、出雲大社を建てました。
大社社殿は神門臣家の所有となり、本殿の鍵は神門臣家出身の上官「別火家」が所有していました。
国造家・果安らはほどんど出資しなかったということです。
そうして716年、杵築・出雲大社は創建されました。

つまり、この磐座をまっすぐ南に下れば、出雲大社があるのです。
この磐座が、大社の真の御神体ということになります。

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畏れ多くも、磐座の麓まで足を運ばせていただくと、そこには小さな社が祀られていました。

14件のコメント 追加

  1. 市川@武州荒木 より:

    五条先生
    私のコメントにご回答頂き、誠に有難う御座いました。

    私自身は、出雲の伝承に関しては、天外さんの「日本列島祈りの旅」に紹介されていた情報を頼りに、2019年から司馬遼太郎→吉田大洋とたどり、近年、再出版された故吉田大洋氏の「謎の出雲帝国」の巻末に、大元出版の出版活動のことに触れていたので、Amazonで大元出版の書籍を取り寄せまして、読ませていただきましたところ、斎木先生が、御尊父であられる富當雄氏から富家の伝承を受け継いだ正式の継承者であることが分かりましたので、以来、大元出版の発刊書籍から、出雲の伝承を勉強しております。

    去年の出雲の祈りの旅の初日に行った「猪目洞窟」で、大国主の霊が現れたとのことでしたが、私は霊的なものは「見えない人」なので、私はまったく分かりませんでしたが、シャーマンの方によると、上記の通り、奥から大国主が現れ、洞窟の中の小さな祠の所まで来たとのことでした。

    シャーマンの方は、天外さんのお仲間ではなく、斎木先生から、天外さんが代表を務めるホロトロピックネットワークに紹介された出雲の地元の方の親族の方なので、「嘘」は言っておられないと存じます。

    大国主の埋め墓ですが、富士林先生の「出雲王国とヤマト王権」では、竜山の「銅を掘った穴にヤチホコ王は丁寧に埋葬された」とありますが、大国主の枯死事件から2200年ほど経過した現在、竜山も時の経過で、山崩れその他の原因で、大国主を埋葬した銅を採掘した穴が見失われたのは仕方ないのかもしれません。竜山全体を大国主の埋め墓と見れば間違いないとは思っております。

    郷戸家ですが、現在も神門家の子孫は、出雲に数十軒現存し、別火家も、少数ながら出雲にまだ残っているようです。大山の大神山神社の宮司家の相見家は、大国主の長男のアジスキタカヒコの末裔との一子相伝の伝承があり、こうみますと、島根には、まだまだ西出雲王家の末裔は残っていますね。

    これら郷戸家側の末裔に、大国主の埋め墓についての伝承が残されていれば、何時の日か、その場所が特定出来る日が来るのではないかと期待しております。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      市川様、とても良い情報をありがとうございます。
      郷戸家や別火家も存続されてあるとは、嬉しいことです。シャーマンの方につきましては、斎木様ご親友のご子息であると伺っております。大国主・事代主の霊がお喜びになられたと言う話ですので、とても良いことと感じ入っております。

      八千矛王は名の通り、この大国の主となられたのだと思います。もはや埋め墓は竜山全体でも良いし、出雲やこの国全てでも良いのではないかと思います。
      大切なのは今を生きる私たちが、出づ芽の遺伝子を後世に繋いでいくことではないかと思っています。残念ながら、日本もおかしくなってきましたが、まだ道はあるものと考えています。

      いいね

  2. narisawa110 より:

    わお、何気に重要なコメントがっww

    鵜峠と鷺浦は厳密に言うと地籍であって、地名ではありません。故に鵜鷺峠という地名もないんですよね。
    鵜峠をGoogleマップすると、現在の他社裏の鵜峠から竜山山頂まで行政界が続きます。
    山頂から西側方面の県道沿いには、鵜銅山跡が今でもあり、他にも銅山があって、竜山の東側の谷では現在でも鉱毒の中和をおこなっている場所があったはずです。
    実は、猪目洞窟は鵜峠の行政界の東側からも外れた場所にあるので、ウサギ峠の記述からは外れるんですよね。

    確かに、御霊神社は太々山の麓にありますが、風葬してモガリやって、その後磐座に埋葬するのなら間違いなくあの場所しかないんですよね。

    ヤマレコでも確認しましたが、鵜峠から竜山の尾根道には何にもないです。

    詳細がわからなくなったのは少なくともその後、移されたとか、まだ公開できないと考える方が私は自然と思っています。
    今でこそ時代が変わって色々回れますが、本来はトップシークレットでタブーですものね。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      詳細なコメントありがとうございます!
      そうですね、本来埋め墓は禁足なはずです。「今でこそ」まさにそうですね。

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  3. 市川@武州荒木(横浜在住) より:

    五条先生、ご無沙汰しております。ご多忙のところ申し訳ございませんが、本記事に関連して、質問があります。

    八千矛王の御遺体の埋葬場所ですが、富士林先生の「出雲王国とヤマト政権」108ページの記述によると

    「猪目洞窟で、ヤチホコ王の遺体を確認した神門臣家の人々は、その西南にある竜山に、王の遺骨を移した。竜山は、昔は自然銅が採掘される山だった。その銅を掘った跡の穴に、ヤチホコ王は丁重に埋葬されたという。現在では、その場所はわからなくなっている」

    とありますが、五条先生のこちらの記事では、御陵神社の磐座の下に埋葬されたとあります。

    今年5月の、ホロトロピックネットワーク主催の出雲の祈りの旅に参加しますが、最終日、神魂神社近くの富家の古代の拝み墓や、ヤチホコ王関係の場所を回りたいと思っておりますが、ネット上では、ヤチホコ王は、こちらのコメント欄の他の方のコメントにもある様に、ヤチホコ王が枯死させられたのは、脳磯洞窟であるとか、遺骨は、竜山から、さらに八雲山に移されたとか、結構、情報が錯綜してますので、この点につきまして、五条先生のご見解をご教示頂ければ幸いです。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      八千矛王の埋葬場所について僕が御陵神社としているのは、斎木雲州先生の本のどれかに記載があったからだと思うのですが、確認できません。
      ただ出雲大社の鎮座地を巡って、最終的に今の場所になったのは、その北方に大国主の埋葬場所があったからだとするなら、御霊神社はぴったりな場所となります。
      が、富士林先生のご著書は、斎木先生の最新の見解が反映されているものと思われ、それを参考にされると良いのではないかと思われます。
      ただ、「その場所はわからなくなっている」というのが本当のところではないでしょうか。
      narisawaさんの言われる脳磯洞窟説は、実際に足を運んで、風土記などに記載されている内容にこちらの方がぴったり一致するのだと説明されており、その通りなのかもしれません。僕も一度足を運んでみたいと思っていますが、なかなかハードルが高そうで躊躇してしまいます。
      一番は郷戸家の方で、伝承をされている人がいらっしゃれば良いのですが。

      あまり参考になる意見が言えず、申し訳ありません。
      でも色々と歩き回ってみて、そこから感じ取るのが一番だと、僕は思っています。
      良き旅となることをお祈りします。

      いいね

  4. narisawa110 より:

    懐かしいですね、イナセハギ神社。出雲北山山地縦走と、ここを目当てにして登山計画を立てました。
    南アルプスで遭難寸前になって、くやし涙のw私が起死回生の一手で五条先生のこのページを頼りに冒険に出かけたのです。
    神隠れの窟に関しては、昔の出雲伝承を追うファン、謎の出雲王国組にとっては究極の目的地だったのです。

    ここの神社の解釈に関しては、出雲伝承ホームページの先輩方では意見が分かれ、あまり好ましい事例が見られないような気がするのですが、私はこの神社が御陵神社を守る立ち位置の神社と考えています。
    御陵神社近くの川がかつては八千鉾川だったと思われ、現在では八千代川になってること
    イナセハギ神社が杵築大社の創建と同じような時期であると考えられること。千木の方も縦削ぎになっていることからも、出雲王家サイドの投影が感じられるのです。
    それと、真の黄泉の穴と噂される脳磯の配置と、脳島洞窟。
    鷺浦と鵜峠の境目がちょうど脳磯と思われる海岸まで続いています。
    入り口手前の地形が頭が割れて染み出した脳にそっくりで、松の木が生えていて、風土記の描写にそっくり。
    脳島洞窟の方が御霊神社にすごく近いんですよね。
    それと、富士林先生の本に出てましたっけ?ゴウボラ貝だと何やら九州的というか、若干出雲っぽくない気がするんです。
    出雲人でゴウボラ貝を纏う人が葬られるにはちょっと寂しい場所ですよね。
    王家ならもっといい場所を押さえていると思うんです。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      脳島洞窟は行ってみたいと思いながら、ハードル高そうだなとnarisawaさんの山レコを見て躊躇しています。それに昔から洞窟は苦手なんですよね、なんだか。
      伊奈世波岐神社は本当に感じの良い神社で、出雲的な場所だと僕も感じました。ヒナドリの話の方が後付けなのかもしれません。
      僕はあまり信じていませんが、例のスピ系の慰霊の祭りでは猪目洞窟の奥から大国主が出てきたと言う話でした。たしか海家の子供らも出てきて訴えていたのもここだったような。大国主の死地が脳島洞窟であるとしたら、その話の信憑性が揺らぎますね。

      ともあれ、narisawaさん、先生はよしてください、なんだかむず痒いですわ😅
      僕もnarisawa先生って呼んじゃいますよ😁

      いいね

      1. narisawa110 より:

        え~だって、本書いたらもう先生ですよ~ww
        実はですね、出雲風土記だと、海岸に出て西側方面に向かうと洞窟が現れる表現になっています。
        私のレコは本来のルートではなく、おそらくですが現在は海食で失われた本来のルートの、別の道なんです。
        一度アタックを失敗した時の写真が掲載してありますが、そこが本来のルートと思われ、今でもうっすらと岩場の西側方面に階段の様な痕跡が見られるんですよ。
        猪目洞窟だと絶壁で西側に向きを変えてあの洞窟に到達するって形にならないんです
        御陵神社があのサイズで、イナセハギ神社があのビッグサイズでずっと奇麗に保たれていますし、発見された場所が手つかずで残るのならまだ分かりますが、普通なら恐れ多くてお墓の二次使用はしないだろうという考え方です。

        あと、霊のお呼び出しは、場所はあんまり関係ないはずですよ~。場に力があれば出来るはずです。
        例のユーチューブもそうでしたしね。

        いいね: 1人

        1. CHIRICO より:

          なるほど〜、しかし出雲風土記に大国主のお隠れになった洞窟が表記されてあることにも驚きました。
          ホヒ家が書いたんですよね、真っ先に抹消したい事実であるような気がしますが。

          もうこうなったら着物着てヒゲでも生やして、「うぉっほん!」なんて咳払いして先生の風格を纏うしかありませんな😁

          いいね

          1. 市川@武州荒木(横浜在住) より:

            五条先生、ご無沙汰しております。

            昨年のホロトロの祈りの旅で御稜神社の磐座を参拝して来ました。動向して下さった能力者の方によると、この磐座は、エネルギーの固まりであり、これがあれば出雲は大丈夫!!とのことでした。

            この磐座については、斎木先生の著作には記述はありませんでしたが、勝先生の本の方に、八千矛王(大国主)の遺骨が岩倉に埋葬されたという記事があり、岩倉→磐座であれば、竜山周辺ではこちらしかない様ですし、大国主は、播磨風土記の記述だと記憶しておりますが、「イワの大神」という別名があり、イワ→当磐座と理解するならば、まさに、八千矛王が埋葬されたのは、当磐座であったものと確信出来ました。

            今年の五月の祈りの旅が、出雲の最後の旅になりますが、天宮山頂上の事代主が埋葬された磐座にもお参り申し上げる予定です。

            我が市川一族の惣領家は、甲斐の市川の表門神社の宮司を代々務めておりますが、宮司家の系図には、甲斐武田家の祖の源義清の家臣に日置弾正政家なる人物が登場し、表門神社の別名は御崎神社。末社にも御崎大神社・小御崎神社があり、また、熊野神社(紀伊の熊野本宮大社ではなく、出雲の熊野大社と同じ御祭神)
            まであって、どうやら、表門神社は、もともとは、出雲で美佐岐社を奉祭した日置臣シビの系統の日置氏が宮司で、源義清が甲斐市川庄に移された時、その世話をして、源義清の被官(家臣)化して、源義清の親族が宮司家を継承して、市川一族が発生した模様です。

            埼玉県比企郡には、ときがわ町や小川町・滑川町に旧家の市川氏が多いですが、日置は「ひき」とも読み、壬生吉士とともに日置氏が現在の比企郡域を開拓したという伝承もあるので、出雲から甲斐市川経由で、日置氏が比企郡域に進出し、開拓に勤しんだということだろうと推定しております。日置(ひき)が転じて比企となったのでしょう。

            大元出版の書籍によれば、日置臣シビは、東出雲の富王家の一族の女性を妻としたと記述がありますので、市川一族にも、遠い遠いご先祖まで辿ると、女系で富王家の血が入っていることになりそうです。

            いいね: 1人

          2. CHIRICO より:

            良い参拝となりましたようで、何よりです♪
            大国主の御墓は他説あれど、御稜神社の磐座が並々ならないものであるのは確かなことです。
            日置臣シビは確か聖徳太子のモデルである上宮法皇の血も引いているのではなかったでしょうか。良い血筋ですね♪

            いいね

  5. れんげ より:

    猪目洞窟、とても気になる場所ですが、訪問できていません。公共交通機関で移動する者にとってはちょっと無理のあるところです。加えて、とても辛く悲しい事件の現場と思うと、私もこうした神社・旧跡巡りは一人で行きますので、訪問して、広島の原爆ドームを見学した後のような心持ちになりはしないかと怖いというのもあります。
    それにしても、伊奈世波岐神社は本当に思いの外雰囲気の良いところですね。もっと木々に埋もれた小さい神社をイメージしていました。
    それから、御陵神社、このようなところがあるのですね。ここの磐座をまっすぐ南に下れば出雲大社。納得です。
    と、言うのは、大元出版本を読んだ直後に出雲大社を参拝した際、竜山に眠る八千矛神に想いを馳せてお参りしたいと思い、地図で見ると竜山の頂上は出雲大社から見て少し東寄りになる? 竜山はどれ?あれでいいのかな? となったのですが、普通に正面に向かえばこの磐座があるのですね! 次回からはそのつもりでお参りします。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      確かに、海側のこの辺りを車なしで巡るのは厳しいですね。
      私は洞窟が少し苦手で、猪目洞窟でも背中がざわざわしたのを覚えています。
      なんだか空気が澱んで、いろいろなものが吹き溜まっているように感じるからです。
      伊奈世波岐神社は由緒はともかく、とても気持ち良いところでした。
      港から吹く海風が一帯を清めていて、また丁寧に管理されているようでした。

      いいね

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