福岡県大野城市の南方に「牛頸」(うしくび)との名を持つ町に「平野神社」があります。
交差点から見える御神木が目を引きます。
通称「牛頸神社」とも呼ばれる当社は、正暦2年(991年)京都の平野神社の分霊を勧請したと伝わります。
御祭神は「今木神」(いまきのかみ)、「久度神」(くどのかみ)、「古開神」(ふるあきのかみ)、「比咩神」(ひめのかみ)を本殿に祀り、その奥宮に「大鷦鷯命」(おおささぎのみこと)、すなわち仁徳天皇を祀ります。
とまあ、よく分からない御祭神です。
大竜寺山山頂に奥宮として後に仁徳天皇を奉祀する、とあるので、ここはまず登って見ます。
登り口に「三つの石神」というのがあり、右は「頭の神」、中央は「疱瘡(天然痘)の神」、左は「熱の神」とあります。
石の階段を登ります。
すぐに頂上が見えて来ます。
近っ。
大竜寺山といいますが、山というより丘です。
奥宮が見えて来ました。
仁徳天皇といえば、神功皇后の子とされる応神天皇の子となります。
祠の中には石が祀られていました。
「貞応元年(1222年)、筑紫鎮護の祈祷料として御笠(みかさ)、莚田(むしろだ)、志摩(しま)、肥前(ひぜん)、豊前(ぶぜん)に社領を勅賜さる。
古代の牛頸は須恵器を伝え作った人々の邑(村)であった。」と由緒にはあります。
須恵器は、渡来の民が持ち込んだ技法で作られたと云います。
今木神は「新たに来た神」のことという話なので、徐福らのことを言っているのかもしれません。
ただ、牛頸神社は、京都平野神社からの勧請より、さらに古い時期に既に存在していたとも伝わります。
そもそも、「牛頸」という地名が、昔からおっかないなと思っていました。
牛頸の名の由来はいくつかあるようです。
菅原道真公左遷の時、太宰府に行きつくまでに、この地で牛が首を垂れて動かなくなった
牛頸地区の西に位置する古野山の形が、牛が首を伸ばした形に見える
縄文時代、牛頸地区付近は海岸線になっていたことから、アイヌ語の「海の入り江」を表す「うし」が名の由来となった
古墳時代や飛鳥時代にやってきた渡来人の故郷の地名「牛頭」が変化してつけられた
そういえば徐福のこととされる「スサノオ」は「牛頭天王」とも呼ばれていました。
その辺と関係があるのかないのか、ちょっと深読みしすぎな気もしますが、よくわかりません。