「松島や ああ松島や 松島や」
日本三景のひとつ、仙台「松島」を訪れました。
せっかく松島に来たので、湾内をぐるり遊覧船で島巡りしてみます。
島巡りには、いくつかの船舶会社とコースがありますが、たくさんの島々を50分かけてゆったり湾内を1周するプランが人気です。
船がゆっくりと出航します。
遠くに松山城が見えますが、これはかつて松島城観光ホテルとして宿泊することができたと云いますが、現在は展望台となっていて、360度松島の絶景を堪能できるそうです。
左手に「福浦橋」、
右手に「双子島」が見えます。
松島は丘陵の東端が海にまで達し、それが沈水し、海水が入り込み山頂が島として残った多島海だと云います。
湾内の水深は10メートル以内で、これはこの一帯が過去から大きな地震のたびに地盤が少しずつ沈下してできた地形であることを物語っているそうです。
大小様々な島々は、波に洗われ侵食し、海面に近い基部は白から灰白色の岩肌を見せています。
そして島の多くは、上部に松などが植生し、松島の名の由来になっていると思われます。
260余りあるすべての島には名前がつけられていて、2007年、日本の地質百選に選定されました。
これは「千貫島」と呼ばれ、伊達政宗お気に入りの島だったと云われています。
政宗は「この島を余の館に運ぶ者あらば、銭千貫を遣わす」と言ったとか。
「在城島」では伊達政宗がこの島で月見の宴を開いたと伝わり、その時「このうように見渡す限りの視界なれば、落城の憂いなし」と言ったそうですが、家来が勘違いして城がなくてもある城の島と名付けてしまったと云います。
「鐘島」は4つの洞門に打ち寄せる波が、鐘の音のように聞こえたことが名の由来。
こちらもいくつか穴の空いた「小藻根島」です。
そしてこちらが松島を代表する島の一つ、「仁王島」。
仁王像が葉巻をくわえて座っているように見えるといいますが、
僕にはどうみても、スフィンクスに見えます。
このように侵食、風化作用を受け、個性的な造形の島々となっています。
もろい地層の上に松島は成り立っているため、長い間に風景も少しずつ変化してきたと考えられています。
2011年3月11日に発生した「東日本大震災」(東北地方太平洋沖地震)とその直後に襲来した大津波によって、島の一部は破壊されてしまいました。
しかしそれでも周辺の自治体と比較して、松島は被害は軽微で済んだといいます。
それは、津波は浅い海に入って速度が落ち、急激にエネルギーを失ったことと、松島湾内に点在する島々が壁となって津波を弱らせたからだということです。
では、一通りクルージングを楽しんだ後は、陸地から散策してみます。
松島は「日本三景」の一つとして、国の特別名勝に指定されています。
松島湾は暗礁が多く、航行が困難な海域です。
そのため、江戸時代に伊達政宗は、この港を「軍港」として利用したそうです。
瑞巌寺を始めとした伊達家が関わる建物は、軍事施設として建設されたと云います。
松尾芭蕉は実は隠密で、松島を始めとして仙台藩の城や要害、関所などの主要施設を巡ったのがいわゆる「奥の細道」であるという説もあるようです。
松島のシンボルに「五大堂」があります。
五大堂は港から橋伝いに渡ることのできる小島に建つ御堂です。
御堂へは3つの赤い橋を渡るのですが、そのうち、真ん中の橋と、御堂側の橋は「透橋」と呼ばれてます。
名の由来はそのまんま、橋桁が等間隔に隙間が空いていて、下の海が透けて見えるのです。
足が落ち込むくらいの大き目の隙間なので、ちょっとしたスリルを味わいがなら、緊張感を高めて参拝ができます。
五大堂は、伊達政宗が1604年に創建したもので国の重要文化財に指定されており、松島湾の景色を臨む絶景スポットとしても有名です。
松島は日本三景を「雪月花」に例えた場合の「月」にあたります。
「雪月花」(せつげっか)とは、白居易の詩「寄殷協律」の一句「雪月花時最憶君」(雪月花の時 最も君を憶ふ)による語で、雪・月・花という自然の美しい景物を指す語として使われます。
そして「雪月花」は、日本の芸術・美術の特質の一つとして、例えられるようになりました。
日本三景では
天橋立が「雪」
松島が「月」
宮島が秋の紅葉を見立てて「花」と例えられています。
この月は仙台空港付近から撮影したものですが、松島から眺める月は、さぞ美しいことでしょう。
「いづる間も ながめこそやれ 陸奥の 月まつ島の 秋のゆふべは」 ー伊達政宗ー
松島には、いつの頃からか伝えられる「縁結びコース」というものがあります。
松島には雄島に架かる「渡月橋」、福浦島の「福浦橋」、五大堂の「透かし橋」と3つの赤い橋が架かっていますが、これにはそれぞれ「縁切り」「良縁に出会う」「縁を結ぶ」という縁起があり、この順番で回ることで良い縁が結ばれると云われています。
福浦橋は全長252mの朱塗りの橋で、松島湾と福浦島とを結んでいます。
福浦島は自然公園になっており、散策によいコースとなっています。
福浦橋からふと空を見上げたら、「i Love」のような雲がぽっかり浮かんでいました。
雄島は、石の塔婆、板碑が点在し、岩窟の中には五輪塔や壁面に法名の彫られたものなどが残る、僧侶の修行の地でした。
そこは霊地であり、松島にあって独特の雰囲気を漂わせています。
細い岩の壁の隙間を抜けると、
雄島へ渡ることのできる、朱塗りの渡月橋が見えて来ます。
震災による津波で一度流失した渡月橋は、平成25年の6月に完成し、7月からは島に渡ることができるようになりました。
さて松島には様々な展望スポットがありますが、僕は車もあったので、少し高台にある「新富山」へ向かいました。
そこは歩いて行けなくもないのですが、坂を上るのに少々体力を使うため、穴場となっているようでした。
夕暮れに浮かぶ松島の島々が、郷愁を誘います。
松尾芭蕉が「奥の細道」で、松島を訪れた際にあまりの絶景に句が浮かばず、「松島や ああ松島や 松島や」という句を詠んだという逸話があります。
実はこの句は、後世の狂歌師「田原坊」が詠んだ「松島や さて松島や 松島や」を借用した創作であるということです。
ただ、松島を見た芭蕉が句を詠めなかったのは事実らしく、代わりに弟子の河合曾良が「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」の句を詠んだと云うことです。
日本三景「松島」に訪れて、芭蕉の代わりに一句捻るのも、乙なものかもしれません。