羽黒山

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山形に「出羽三山」(でわさんざん)と呼ばれる霊山があります。
「月山」「羽黒山」「湯殿山」の3つの山の総称で、修験道を中心とした山岳信仰が今尚受け継がれている聖地なのです。
今回、この出羽三山を踏破することを最大の目的として、僕は山形までやってきました。

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最初に向かうのは「羽黒山」(はぐろさん)です。
羽黒山は、山形県鶴岡市にある標高414mの山で、出羽三山の主峰である月山の北西山麓に位置しています。

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羽黒山登山口一帯には、数多くの宿坊が連なっています。

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6月1日と7月1日の山開きの日には、この一帯は修験者で溢れかえるのだそうです。

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「羽黒山参詣道」の入口です。
羽黒山は山頂付近にある本殿まで有料道路を通り車で行くこともできますが、ここは歩いて登るだけの価値があります。
むしろこの参道こそ、羽黒山の真価であると言っても良いでしょう。

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雪深い山形の地において、出羽三山の中で唯一年中参拝できるのはこの羽黒山だけです。
なのでこの羽黒山山頂にある社殿には三山全ての神が祀られており、羽黒山に参るだけでも三山全てを参拝するのと同じご利益を得られると伝えられています。

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入り口には古びた朱色の随神門があります。

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右手に地蔵尊。

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「天拝石」と書かれた巨石が鎮座します。

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修験者が行法を行なった場所の石であろうと云うことです。

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随神門を越えた先が、

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いきなり山です。
鬱蒼とした大樹の気が、上から伸し掛かって来るようです。

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背後に門を通して差し込む光が際立ちます。

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出羽三山は、かつては「羽州三山」、「奥三山」、「羽黒三山(天台宗系)」、「湯殿三山(真言宗系)」などと呼ばれていました。
現在の宗教法人としての名称は「月山神社出羽神社湯殿山神社」(出羽三山神社)となります。

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随神門から下って程なく、小さな社が幾つか見えてきます。

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社はどれも似た造りで、ひとつひとつによく知った神の名が記されています。

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いずれも古びて神寂びています。
柱や壁は所々剥げて、風雪に長く耐えてきたことを物語っています。

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こうした社は、この先の参道のいたるところにあり、主だった神々が全て、山中で祀られているのではないかと思われます。

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少し歩いていると、深い緑に鮮やかな、美しい朱塗りの橋があります。

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そこには「須賀の滝」と「祓川」(はらいがわ)があり、水の気が一帯に満ちています。

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昔は三山詣する人は、月山にその源を発するこの清流で、必ず水垢離をして身を清めたそうです。

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ちょっとどんなもんか近づいてみましたが、あまりの霊気にブルっときました。

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水垢離をした気分になって、再び進みます。

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出羽三山の始まりは、今から1400年の昔、推古元年(593年、飛鳥時代)に崇峻天皇の第一皇子「蜂子皇子」(はちこのおうじ)が羽黒山を開いたことに拠ると伝わります。

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しかし神仏習合が盛んだった頃の、出羽三山の修験道においては、当山派、本山派の修験も存在し、これに加えて月山の祖霊信仰に由来する土着の羽黒派修験と合わせて3つの修験の修行道場として共存していました。
これら当山派や本山派の修験者たちは、空海や役小角を出羽三山の開祖として伝えていると云います。

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深い森を進むと、

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道の左側に「爺杉」と呼ばれる立派な杉の大木が見えてきます。

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樹齢1000年ともいわれる杉の巨木です。

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ひと際存在感を放つこの杉のそばには、かつて「婆杉」もあり、この爺杉と並ぶ羽黒山の名物であったそうですが、台風で失われてしまったと云うことです。

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爺杉のそばまで寄って見ると、

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羽黒山参詣道の最大の見所「五重塔」が見えます。

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五重塔、国宝です。

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東北では最古のものとされ、創建は1100年前「平将門」の手によるものと伝えられます。
現在のものは1372年建立。
素木造り、柿葺、三間五層の塔です。

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歳月を経て侘びた佇まいは、杉木立の間にあって神々しく美しいです。

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厳かで圧倒的な存在感を放つ五重塔は、山中の森の中に忽然とあり、その幻想さに誰もが息を呑み立ち尽くします。

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五重塔から先は一の坂、二の坂、三の坂と続きます。

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その坂は全長約1.7km、2446段もの階段が延々と続きます。

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この石段は360年前ごろ、「講」の人たちによって整備されたものと云います。

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「講」とは神仏を祀り参詣する人々によって組織された団体の事で、富士講、伊勢講、稲荷講、大師講などが全国にあります。

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今ほど移動が容易ではなかった時代、「講」の人たちは積み立てをしたり、相互扶助をしあって、何年かに一度、ときには一生に一度、自分達が信仰する神仏に参詣することを目的としていました。

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この「講」の人たちの宿泊施設、拠点として作られたのが宿坊です。
羽黒山参詣道の入口周辺に立ち並んでいた宿坊も、その一つです。

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講の人たちは参道を整備し、定期的に詣で、またその信仰を広げる努力をしてきました。

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羽黒山信仰も講の人たちによって守られ、幽玄なこの石段もまた、まさに多くの人々の信仰の深さと勤勉さによって作り上げられたと云うわけです。

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それにしても、思った以上に長く続く石段。

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気が遠くなる道のりです。
この二の坂は、別名「油溢し」(あぶらこぼし)ともいわれ、武蔵坊弁慶があまりの勾配に奉納する油をこぼしてしまった、と伝えられています。

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遠くに何か見えてきました。

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「二の坂茶屋」さんです。

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ここまででちょうど半分といったところです。
一息いれるにはちょうどいい。

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ここの名物は暖簾にもあった「力餅」。
茶屋を営む高城さん一家は、毎日この石段を登り、手づくりの力餅やお抹茶をつくってくださってます。

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ずんだのきな粉と黒あんの2種類があります。
写真は持ち帰り用の5個入り。
力餅の名の通り、とても弾力のある力強いお餅です。

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この茶屋からの眺めがまた素晴らしい。
「陸の松島」と呼ばれる絶景です。
山頂は展望が利かないので、ここで俯瞰の眺めを堪能します。

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名残惜しくも茶屋を出発。

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再び石の階段に汗します。

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道を外れたところに赤い鳥居を見つけました。

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稲荷があるようですが、先を急ぎます。

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とにかくどこまで行っても階段です。
時間にして40~60分。

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石段には盃や蓮・ひょうたんなどの絵が33個彫られており、全部見つけることのできた人は願い事が叶うと云われています。
僕はこの一つしか見つけられませんでした。

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蜂子皇子は、第32代崇峻天皇(泊瀬部大王)の皇子です。
蜂子皇子は三本足の霊烏(れいう)に導かれて、この羽黒山に登拝、羽黒権現を知覚し、山頂に祠を築いたのが始まりと云われています。
その後、蜂子皇子は月山と湯殿山においてもそれぞれ月山権現と湯殿権現を知覚し、いわゆる「出羽三山」とよばれる霊山三山の開祖となりました。

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斎木雲州氏が語る真実の古代史によると、聖徳太子のモデルとされる「上宮太子」の時代、額田部太后(後の推古天皇)の御子「竹田王子」が暗殺されます。
竹田王子が死去することで益を得るものが犯人であると太后は考えました。
その時大王であった泊瀬部大王は、大伴小手子との間に生まれた息子「蜂子皇子」を、次期大王にしたいと思っていたと云います。

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泊瀬部大王は、欽明大王と石川(蘇我)小姉君の皇子です。
石川小姉君は、石川稲目の娘です。
石川氏は日本書紀に「蘇我氏」と書かれている一族で、武内襲津彦の子孫です。
実際には蘇我氏と石川氏は別の氏族であると考えるべきなのですが、書記は混同させ、石川氏の存在を故意に改ざんしています。

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太后は「石川臣麻古」(蘇我馬子)に、泊瀬部大王を暗殺するように唆しました。

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ここからは羽黒山の由緒になりますが、父を政争によって失い、その難を避けるために蜂子皇子は大和の国から出羽の地に逃げてきたと云います。
そこで三山を開山するに至りました。

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斎館が見えてきました。
山頂が近いようです。

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森に佇む赤い鳥居が見えてきました。

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月山遥拝所に「能除太子御坐石」とあります。

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能除太子(のうじょたいし)が休まれた石であるとあります。
蜂子皇子は羽黒で、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた事から、「能除仙」、「能除大師」、「能除太子」などと呼ばれました。

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馬子から逃れるべく蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ、宮中を脱出して丹後国由良(京都府宮津市)から船で北へと向ったと云います。
そして、山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、イツハの里の八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見ました。
皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸します。
すると海岸から三本足の烏がやってきて、羽黒山に皇子を導いたと云います。

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鳥居をくぐると、広い境内に出ました。

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厳島神社の横に

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蜂子神社が鎮座します。

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そしてその奥に、出羽三山神社「三神合祭殿」(さんじんごうさいでん)があります。

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羽黒派古修験道独自の合祭殿造りで、高さ28m(9丈3尺)桁行24.2m(13間2尺)梁間17m(9間2尺4寸)の迫力ある社殿です。
内部は総朱塗りで、屋根の厚さ2.1m(7尺)。

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現在の社殿は文政元年(1818年)に再建されたもので、萱葺の建造物としては日本最大の大きさです。

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この三神合祭殿はその名の通り、月山・羽黒山・湯殿山の神々が祀られています。
それは月山や湯殿山は、冬季は雪で参拝も祭典を行うこともできないので、三山の祭典はすべてここで執り行うからと云います。
つまりここを参拝すれば三山を巡ったことになるとされる所以です。

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各御祭神は次のようになっています。

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月山神社(中央)    :月読命(ツクヨミノミコト)

出羽神社(向かって右側):伊氐波神(イデハノカミ)
             倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)

湯殿山神社(左側)   :大山祇命(オホヤマツミノミコト)
             大己貴命(オホナムチノミコト)
             少彦名命(スクナヒコナノミコト)

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出羽三山には、かつては、鳥海山や月山の東方にある葉山が含まれていた時代があったと云います。

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湯殿山は、かつて「出羽三山総奥院」とされ、三山には数えられなかったそうです。
天正年間に、これまで出羽三山の1つとされていた葉山が、別当寺であった慈恩寺との関係を絶ったことで葉山信仰が衰退し、湯殿山と入れ替わったと云います。

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三神合祭殿の前には「鏡池」があります。
本殿の御手洗池でしたが、神聖な池として平安から鎌倉時代にかけて奉納された銅鏡がたくさん埋納されているそうです。

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そのため強力なパワースポットとして今に伝えられています。

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ところで出羽神社の「伊氐波神」(イデハノカミ)という神がよく分かりません。
出羽の由来となる主祭神であろうと思われるのですが。

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出羽三山神社の由緒に次のような文があります。

「イツハの里・由良(ゆら)の八乙女浦(やおとめうら)に迎えられ、三本足の霊烏に導かれて、道なき径をかき分けたどりついたのが羽黒山の阿古谷(あこや)という、昼なお暗い秘所。
 蜂子皇子はそこで、来る日も来る日も難行苦行の御修行を積まれ、ついに羽黒の大神・イツハの里の国魂「伊氐波神」の御出現を拝し、さっそく羽黒山頂に「出羽(いでは)神社」を御鎮座奉られた。」

つまり伊氐波とは「イツハ」であり、イツハの里(由良)の国魂であると云います。
なるほど、わかったようなわからんような。

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もうひとつ不可解なことがあります。
蜂子皇子は羽黒で、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた事から、能除太子と呼ばれています。
この多くの人の悩みを聞いた結果、皇子は肌は黒く、鼻は尖った異形の顔になったと伝えられています。

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これはどういうことでしょうか。

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蜂子皇子の祖先を辿っていくと、「武内宿禰」(襲津彦)に行き着きます。
この武内宿禰に所縁ある場所には「黒男神社」や「黒髪山」など、「黒」という文字が付きまといます。

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肌の色は浅黒く、鼻は天狗のように高く、口は大きくてよく見知った日本的な見た目ではなかった。
というなら、これはひょっとして黒人系の渡来人の血が入っていたのか。

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いや、武内襲津彦は海部系の紀国国造「高倉下」の子孫である「山下影姫」と物部系「ヒコフツオシ」との間に生まれています。
黒人の血が混じっていたという話は聞いたことがなく、可能性は低いように思われます。

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しかし「黒」を印象付けるだけの何かが、彼の一族にはあったと思われます。
羽黒も「肌黒」が元字だったのではないかとさえ、思えます。

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境内隅にはたくさんの摂社が並んでいます。

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その一つ「健角身神社」(たけつぬみじんじゃ)には、足腰の健康を祈願する下駄や靴などがたくさん供えられています。

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健角身神とは八咫烏(やたがらす)とも呼ばれる神ですが、その実体は奈良に移った出雲王家の登美家、その7代目の当主「加茂建津乃身」(かものたてつのみ)のことです。
つまり奈良の地で亡命を余儀なくされた蜂子皇子を助け、導いたのは出雲王家の子孫(登美家)だったということになるのです。

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