佐賀平野に至った徐福が、不老長寿の霊薬を探して登ったと云う金立山、その中腹に変わったパワースポットを偶然見つけたので、行って見ました。
金立山山頂に向けて、細い山道を車を走らせていると、忽然と現れる朱い鳥居。
「正現嶽ノ森稲荷神社」(しょうげんたけのもりいなりじんじゃ)という稲荷社があると云います。
山道に一歩足を踏み込めば、すでに異界の空気を感じます。
苔むした石の階段。
そこそこ勾配のきつい階段が15分ほど続きます。
人のいない森で、何かが蠢く気配を感じました。
正現嶽ノ森稲荷神社は社伝によると、今から約1200年前、僧「行基」が諸国を行脚した時の「岩蔵寺」(今は廃寺となっている)を建立した際、寺の守護神 として京都の伏見稲荷の分霊を勧請したのが始まりとあります。
明治2年と同34年の二度にわたる山火事により、大部分の社殿が類焼したそうです。
その後、荒廃した社殿は信者により、立派に造営され今日にいたっています。
石垣が見えてきました。
鳥居です。
無人かと思われた山中でしたが、なんと社務所がありました。
この日は月曜でしたが祝日でもあり、社務所にも人がいらっしゃいます。
後ほど御朱印をいただきました。
社務所の上を見ると、いくつかの社が見えます。
古そうな井戸もありました。
正現嶽ノ森稲荷神社には先ほどの行基に由来する伝承の他に、別の伝承もありました。
時あたかも戦国争乱の世、群雄が各地で勢力を争い、皇室の御衰微を顧みる者もいませんでした。
そのような時、京都の人に「勝務聖人」という僧侶がおりました。
勝務聖人は、皇室の御衰微を憂い、尊王論を鼓吹して広く全国を行脚します。
ある時、聖人が肥前に来るや足をこの山に留め、大岩の上に一身を挺して懸命に目的達成の祈願をこめて座禅をくんで修行しました。
ところが地位ない身で自分の一心の叶はないのを歎いて七生報国を念じて、ついには身を有明海に投じて自決してしまいます。
この時、佐賀36万石の鍋島直茂公に御曹子がなく当社を始め各神社に御祈願中でしたが、聖人の水定と共に鍋島勝茂公が御誕生になったので、嶽の森稲荷の申し子とて藩主の信仰厚くなり鍋島家では当神社を奥の院として、奉祀し下宮としてその出生地鍋島村新庄に将軍稲荷にを勧請して厚く祀ったと伝わります。
東奧にさらに昇る階段があります。
どうやらここが本体のようです。
立派な拝殿が見えてきました。
山の急斜面に建てられた社。
御祭神は、「宇迦之御魂神」(ウカノミタマノカミ)です。
振り返れば、絶品な景色が広がっていました。
風が心地よいです。
本殿の周りには、たくさんの巨石に囲まれています。
左に回り込むと、洞窟のようになっている場所がありました。
金立山山頂には「湧出御宝石」(わきでのおたからいし)と云う磐座があるそうです。
この山全体が巨石信仰の聖域なのでしょう。
そしてこの岩が勝務聖人が座禅を組んだ「座禅石」でしょう。
佐賀平野を一望する聖人の目には、遠く有明海のきらめきが見えていたのでしょうか。