今や大都会となった博多地区ですが、一歩足を踏み入れると、長い歴史を語り継ぐ寺や神社が立ち並ぶ小京都を思わせる一角が広がります。
そんな博多呉服町地区、御供所地区 、冷泉地区ではライトアップウォーク「博多千年煌夜(こうや)」が11月に開催されるというので行ってみました。
【西昌山 本岳寺】
呉服町地区にある「本岳寺」は他宗派から改宗した経緯を持つ、ちょっと変わった寺院です。
博多ライトアップウォークは2006年からスタートし、今年で12年目を迎えるそうです。
今まで気になっていたものの、開催期間が短く、なかなか出かけることができずにいました。
チケットはコンビニ等で買えますが、数箇所設けられたチケット引き換え場所で本券と引き換えなければなりません。
本件に付いているバーコードで入場を管理するためです。
今年の当日チケットは1500円になっていました。
前売りで1000円です。
少々お高いように感じるかもしれませんが、各お寺を巡ってみると、それでもずいぶんお得なんだと思いました。
それは普段見ることのできない寺宝の数々を、素晴らしいライトアップとともに堪能できるからです。
各お寺の入り口で、チケットのバーコードをかざし、入場します。
チケット一枚で一つのお寺に入ることができるのは、1回のみです。
一旦外に出たら、再入場できません。
しかし違うお寺だったら、2・3日に分けて巡ることは可能です。
実際、1日の限られた開催時間内に全ての寺社を巡るのは、かなりハードです。
2日ほどに分けると、ゆっくり堪能できておすすめです。
とはいえ、なかなか時間が取れない僕は、この1日のチャンスにフルコンプを目指します。
ガツガツ回ってみたいと思います。
本岳寺の境内には「弁財天堂」と「浄行菩薩堂」があります。
弁財天堂には蛇が這った跡といい伝わる石が安置してあり、その筋を撫でると金運に恵まれるのだとか。
浄行菩薩はいわゆる身代わり菩薩だそうで、身の危機を救ってくださるそうです。
本堂では、本岳寺に伝承されている「釈迦誕生図」(オリジナルは九州国立博物館に寄託)や「釈迦涅槃図」など江戸時代初期より伝わる三幅を特別に展示していました。
本岳寺が所蔵している涅槃図は400年以上の歴史があり、学術的にもとても貴重なのだとか。
この釈迦涅槃図の掛軸の裏書には、文政9年(1826年)から天保9年(1838)までの13年間、質に預けられ、第28世日光上人の代に金子6両(現在換算で約80万円)で受け出したと記されています。
開創以前は禅宗の「本覚寺」というお寺で、「西昌」という僧が住持してたそうです。
この西昌はとても囲碁が強いと評判で、明応5年(1496年)8月、京都より法華宗の日因上人が博多に赴き、お寺を賭けての碁を囲む事になりました。
これに日因上人が勝利を収めたため、西昌は約束通りお寺を譲り、山号を先住の名をとって「西昌山」、本覚寺から「本岳寺」に変えたと伝えられています。
囲碁で寺を賭けたり、寺宝を質に入れたり、お坊さんも自由ですが、それも人間らしく思えてきます。
本堂出口付近に「撫で大黒天」がありました。
ご利益ありそうなご尊顔です。
【光明山 善導寺】
浄土宗鎮西派の善導寺は、浄土宗の祖である法然上人の跡を継いだ鎮西「聖光上人」によって建立されました。
参道を優しく照らす、ハスの花のようなライトアップが素敵です。
善導寺縁起によると、聖光上人が豊前彦山で念仏勧行中、唐僧で中国浄土門の開祖である善導大師が博多へ着く夢をみます。
しかも英彦山座主の蔵慶にも同じ夢告のあったことから二人で博多津へと急ぎ、やがて松原樹下に善導大師像を見出しました。
この善導大師像をお祀りするために善導寺は創建されたということです。
創建当初は「善導寺」という名ではなく、聖光上人による百日間の説法が行われたことから「博多談義所」と呼ばれていたそうです。
博多ライトアップウォークでは、写真の撮影も基本的にはOKのようです。
寺院にありがちな、撮影禁止の標識はどこにも見当たりません。
もちろん、だからと言って、最低限のマナーは心がけなくてはなりません。
善導寺は寺宝の多さにおいて「国中第一也」〔続風土記〕と称されていますが、
初秋の寒空で飲む、あたたかい甘酒が嬉しかったです。
【松林山 妙典寺】
「妙典寺」は永徳元年(1381年)に筑後柳川で本成院「日円上人」によって創立されたとされ、当初は「円理院」と称されていたそうです。
ライトアップされた参道を歩きます。
壁の向こうはお墓でした。
日蓮宗の立教開宗350年にあたる慶長8年(1603年)、立花宗茂の家臣、薦野増時が現地に移し、博多における法華経の道場として、また薦野家の菩提寺として再出発を図ることになりました。
現在の本堂と山門は天明5年(1785年)に再建され、1945年の福岡大空襲の焼失を逃れ、往時の姿を今に留めているそうです。
提灯の温かい光などをイメージしたライトアップがなされていました。
お墓(供養塔)のライトアップがありました。
LEDの照明を使い、時間ごとに色が変わって様々な表情を見せます。
お墓をライトアップするというのも、大胆といえば大胆です。
【潮音山 海元寺】
浄土宗鎮西派の「海元寺」は、今回の見所の一つでした。
応永3年(1396年)に大蓮社岌山上人によって開山された海元寺は、黒田長政公の入国時、現在の博多区千代町辺りから現在地に移されました。
ひときわ行列ができているのは、えんま祭りでのみ展示される十幅の地獄絵図、「十王図」が特別展示されているからです。
閻魔大王をはじめとする十人の地獄の大王による死者に対する裁判の様子、地獄の恐ろしさが事細かに描かれています。
ー秦広王ー(初七日)
人間を初めとするすべての衆生は、よほどの善人やよほどの悪人でない限り、没後に中陰と呼ばれる存在となり、初七日 – 七七日(四十九日)及び百か日、一周忌、三回忌に、順次十王の裁きを受けることになっているそうです。
初七日には「秦広王」によって殺生について取り調べられます。
ー初江王ー(二七日)
二七日、三途の川を渡ると、「初江王」がいて、盗みについて調べられます。
ー宋帝王ー(三七日)
「宋帝王」は邪淫の罪について調べます。
ここはヤバいところです。
罪が重い者は、男の場合、猫にアレを食いちぎられ、女の場合、蛇にアレがアレだそうです。。
こわっ!
ー五官王ー(四七日)
「五官王」はうそについて取り調べます。
五官王にたどり着く前に川幅が1500㎞ある「業江」という川を渡らなければなりません。
ー閻魔王ー(五七日=35日)
ここでついに、我らが「閻魔大王」の登場です。
閻魔王は、これまでの諸王の取り調べを受けて、死者が六道のどこに転生するかを決定します。
つまり地獄の裁判官です。
ー変成王ー(六七日)
「変成王」は生まれ変わる場所の条件を決めます。
例えば地獄行きを決定した亡者を、八大地獄のうちどの地獄に行くかを決めるのが変成王です。
ー泰山王ー(七七日=49日)
「泰山王」は転生先での性別や寿命を決めます。
また二枚舌の罪を問うたりするそうです。
基本的に7×7の49日目で供養は終わりですが、死者の成仏を願う気持ちが、後世に以下の3王を加えさせました。
百ヶ日、一周忌、三回忌と供養を重ねることにより、極楽に行くことができるようになると云います。
ー平等王ー(百ヶ日)
「平等王」は遺族の貪欲の罪を戒めます。
百日法要を行う遺族は、この日一日貪りの心を起こさないように亡者の供養をすれば、自らも来世天上界に行くことができると云います。
ー都市王ー(一周忌)
罪の重い死者は地獄に落とされますが、遺族が一周忌法要を心から行うと「都市王_により罪が許されるそうです。
ー五道転輪王ー(三回忌)
都市王と同じく、法要によって救済措置を行います。
インド式の本来の伝承では7人目の王までで、最後の3人は後世の、中国に伝わってからの付け足しです。
更に日本ではもう3人、蓮華王、慈恩王、祇園王が加わり、十三人になっています。
十王図が展示された参道を抜けると、三界万霊塔(さんがいばんれいとう)があります。
三界とは私達が生まれ変わり、死に変りするこの世界のことです。
万霊とはあらゆる精霊を意味します。
ここでは先祖を含む、全ての精霊を供養することの大切さを教えています。
山笠風のお地蔵さんもいました。
さて、海元寺といえば、有名なものがもう一つ、「閻魔堂」と「観音堂」があります。
黒田長政公の宰臣である鎌田九郎兵衛の家来、「槍持ちの源七」が京都から閻魔像の首を持ち帰ったと云います。
この閻魔の首部分を安置するために建立したのが閻魔堂だそうです。
ど迫力の閻魔像ですが、
手前にいらっしゃる「奪衣婆」(だつえば)も人気だそうです。
奪衣婆は三途の川で着物を剥ぎ取るばあさんですが、こんにゃくをお供えすると、子どもの病気を治したり、母乳の出をよくしたりしてくれるそうです。
閻魔堂の隣には、極楽浄土を思わせる「観音堂」があります。
観音堂には西国三十三所観世音菩薩が安置されおり、福岡の地にいながら一度にお参りできるように、三十三所すべての観世音を模写して作られたそうです。
【見佛山 正定寺】
正定寺は明応年間(1492~1501)に開基された浄土宗のお寺です。
このお寺には、「名島城の切腹の間」と「福岡大空襲時の焼夷弾」の破片が残されています。
また「博多どんたく」の源流である博多松囃子「通りもん」の創始者と言われる西頭徳蔵の墓もあるそうです。
特別展示としては、草月流の片山健氏による巨大いけばなを見ることができます。
【葛城地蔵尊】
無料会場となる「葛城地蔵尊」です。
本尊である梵字が刻まれた石碑は、延喜年中(901~923年)に地中から掘り出されたものと伝えられています。
その後、宝満山の修験者・山伏が鎮護国家のための「葛城入峰」の際は、必ずこの地で法華経を詠んだそうで、「葛城地蔵」と呼ばれるようになりました。
この町には昔から大火事があったことはなく、これは葛城地蔵尊のおかげか、福岡大空襲も戦火は手前で止まり、焼け残りました。
出征した町の青年30名も一人残らず無事帰還し、交通事故で亡くなった人もこの町にはいないそうで、「生き残り地蔵」とも云われています。