大神神社:八雲ニ散ル花 32

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古事記曰く、

大国主神が出雲の美保の岬にいますとき、波間よリミソサザイの皮を衣服にして舟に乗ってくる神がいました。
大国主が供の者に聞かれても、だれもその神の名を知る者はいません。
すると、ヒキガエルが「久延彦が知っていますよ」と言いました。

大国主神が久延彦を呼び寄せてお聞きになると、「そのお方は神産巣日神の御子の少名彦神です」と答えました。
久延彦というのは、歩けはしないが天下のことにをすべて知るソホド(案山子)の神だと云います。

神産巣日神が少名彦にこう言付けていました。
「あなたは大国主と兄弟となって、この国を作り堅めなさい」と。
その教えに従って、大国主と少名彦は相並んで、国を作り堅めていきます。
ところが、少名彦は突然、常世の国に去られました。

大国主神は再び、美保の岬で「わたくし一人で、どのようにこの国を治めたらいいのでしょうか」と困っておられました。
すると、海より光って寄ってくる神があります。
「わたくしを、大和の青垣になった東の山上へ、祀りなさい。わたくしを丁寧に祀れば、あなたと共に、国を作りましょう。 もし祀らなければ巧くいかないでしょう。 」と告げました。

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奈良の桜井市にある、なだらかな美しい神奈備「三輪山」。
そこは国内でも屈指の聖域です。
その三輪山を御神体とする聖地が「大神神社」(おおみわじんじゃ)です。

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大神神社の御祭神は「大物主大神」(おおものぬしのおおかみ)。
大物主とは一般に、出雲大社で祀られる「大国主命」と同一神とされており、大神神社の由緒では大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったと記してあります。
参道入口には、出雲大社を超えんばかりの、大きな鳥居が鎮座します。

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大鳥居から大神神社に向かう途中、「大三輪神祠 大神教本院」なるものがありました。

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こんな看板があるので、気になります。

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主祭神は当然「三輪坐大物主大神」となります。
大神神社を信仰する神道系教団で、もとは大神神社の中にあった組織だということです。
明治5年に官幣大社大神神社の小教院として発足、
明治15年に社教分離令の発令にともない宗教活動が禁止され 、三輪信仰の絶滅を憂いた当時の大神神社の禰宜が宮司の了承を得て大神教会を分離独立させて創立したそうです。

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僕が気になったのがこの「三柱鳥居」です。

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何箇所かで見かけたこの鳥居。
ここでは「天之御中主神」「高御産巣日神」「神産巣日神」の造化の三神を表しその柱がつながる事で三神のムスビの働きを表していると云います。
ただ比較的新しいものなので、神秘性はあまり感じません。

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大神神社境内へと進んできました。

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木がよく茂る杜があり、気持ち良い参道が続きます。

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「大物主」とはどういう神なのか。
出雲に祀られる大国主は、ともに国造りを行っていた「少彦名」(すくなひこな)が「常世の国」(海の彼方にあるとされる異世界)へ去った時、
これからどうやってこの国を造って行けば良いのか、思い悩みます。
すると海の向こうから光り輝く神様が現れて、「自分がこの国造りを手伝おう、その代わり大和国の三輪山に我を祭るように」と言いました。
大国主神が「あなたはどなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたと云います。

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その時の像がが出雲大社にあります。
幸魂と奇魂を合わせて「和魂」(にきみたま)と言いますが、
大国主神は自らの和魂を三輪山に、大物主神として祀りました。
これが大神神社の始まりと伝わります。

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参道に「祓戸神社」(はらえどじんじゃ)があります。
まずはここで、穢れを祓って先へ進みます。

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クシヒカタは丹波からやってきた海家一族に圧倒されて、葛城から三輪山方面の磯城郡に移り、指導者の家の長として磯城地方の首長になりました。
磯城を地盤としたことから、東出雲王家出身のクシヒカタ一族は、磯城登美家とも呼ばれるようになり、後では磯城の県主となったと云います。
さらにクシヒカタは、東出雲王官の宮内社から「事代主命」の御魂を三輪山に移し祭祀しました。
一般には大物主は大国主の和魂と解されていますが、その正体は出雲8代少名彦「八重波津身」、いわゆる「事代主」のことであると云うことです。
また出雲のサイノカミの神霊も三輪山の西北に移したことから、こそは狭井坐神社と呼ばれるようになりました。

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出雲族は古くから、神名備山信仰を持っていました。
祖霊が形の良い山に籠っている、という考えがあり、円い山は女神の山と考えられました。
葛城や磯城では、太陽は朝、三輪山から現れるので、三輪山の神は「太陽の女神」と考えられたそうです。
クシヒカタは出雲の「佐姫山」(三瓶山)の太陽の女神を三輪山に移し祀りました。
これによりクシヒカタは「天日方奇日方」(アメノヒカタクシヒカタ)と、呼ばれるようになります。
その意味は、「天の奇しき力を持つ日(太陽)を祭る人」であると云います。

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葛城・大和王国の初代大王に就任した天村雲は、クシヒカタの妹「蹈鞴五十鈴姫」を后にむかえました。
大王は后を三輪山の太陽神の最初の女司祭者に指名します。
こうして出雲族の朝日を拝む信仰が大和にもひろがり、三輪山から昇る太陽を拝むために、多くの人々が集まって政治的な結束が強まりました。
三輪山の祭りは、登美・磯城家の后や姫が司祭者となって行われ、彼女は「姫巫女」(卑弥呼)と呼ばれたと云います。
葛城王国の人々は、蹈鞴五十鈴姫を三輪山の女神であるかのように崇拝し、三輪山の西北、狭井川の上流付近に斎宮を建てました。
そこは出雲屋敷と呼ばれたと云います。

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大和王国の大王は、姫巫女の祭祀能力と人気が力になっていきました。
出雲王国と同じく、祭りに集まる人々の結び付きから、宗教による指導と協力の政治が行われていきます。
その政治はマツリゴトと呼ばれ、出雲出身の鴨族(登美家・高鴨家)と丹波系の海・尾張家に支えられて少しずつ支配地を広げていったと云います。
葛城・大和王国は出雲王国と友好的で、その後も連合王国のような関係にありました。
葛城王家は、クシヒカタの二人の妹「蹈鞴五十鈴姫」と「五十鈴依姫」、クシヒカタの娘の「渟名底仲姫」(ヌナゾコナカヒメ)と、三代続けて登美家から后を迎えられた、と日本書紀に記されています。

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参道の終点付近に、大物主が人間の女性に恋したというロマンティックな伝説を伝える「夫婦岩」があります。

葛城大和王家の后は、登美・磯城家から3代続けて迎えられ、海家より事代主の子孫の血が濃くなりました。
また、当時は妻問婚だったため、御子は母親の里で育てられたと云います。
こうして大和王朝の3代以降は「磯城王朝」と呼ばれ、大和の出雲王国のようになったと伝えられていました。

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拝殿が見えてきました。

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「巳の神杉」という立派な杉が境内にあります。
大物主は蛇神であり、水神または雷神としての性格を持っていると云います。
稲作豊穣、疫病除け、酒造りの神として篤い信仰を集めていますが、ネズミを捕食する蛇は太古の昔より五穀豊穣の象徴とされてきたことに由来するようです。
この杉の穴には白蛇がいて蛇の神様が卵を丸のみするということから、願い事も丸のみしてもらえるという言い伝えがあり、たくさんの卵、お酒などが奉納されています。

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大国主神がに少名彦の名を教えた久延彦神は、歩けはしないが天下のことにをすべて知るソホド(案山子)の神だと云います。
カカシの由来の一説に元は「カガチ」であったと云う話があります。
カガチは「ヘビ」を意味します。
また、ソホド神とは赤顔のサルタ彦の別名だと云うことです。

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大神神社には御神体を祀る本殿が存在しません。
三輪山そのものが大物主の御神体なので、拝殿から直接三輪山をお参りをするという、太古の形式がとられています。

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拝殿の奥には、三輪山と拝殿の区切りに、「三ツ鳥居」があります。
この鳥居の奥は神職さえも立ち入れない、禁忌の聖域です。

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いわばその三ツ鳥居は現世と聖域の結界となっており、その形状はとても特殊なものです。
3個合わさった鳥居の真中、本鳥居には扉が取り付けられているそうですが、開放されるのは元旦の午前1時から行われる繞道祭(にょうどうさい)の時のみということです。
この三ツ鳥居は社務所に願い出ると、拝殿横から垣間見ることができます。
また、近くの桧原神社には、似た形状の三ツ鳥居をしっかり見ることができます。

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社務所前には「なで兎」が鎮座します。
「因幡の素兎」ゆかりなのでしょうが、なで兎をなでると体の痛い部分が治り、運気も上昇すると云われています。

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拝殿の左側を回ると祈祷殿があり、

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その先に「くすりの道」があります。
大物主(大国主)は薬の神様でも有名です。
道横の灯篭は、各製薬メーカーなどが寄進したものです。

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「出雲族が大和の三輪山に神を祭ったが、丹波系の高橋村の『活日』(イクヒ)という人が酒人となった」と、崇神紀に記されています。
古代の出雲の神祭りでは、お神酒造りが欠かせない仕事でした。
「播磨国風土記」に、「伊和の大神」(大穴持命)が酒を造った記事があり、三輪山でも出雲の伊和の大神が酒造りを教えたとの言い伝えがあります。
酒を入れるカメを古語でミワと言いましたが、それが「ミワ山」の語源で、三輪の漢字が当てられたのであろうと云われています。
そして三輪山の神は、酒造りの神だとも言われる由縁となりました。

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酒蔵の軒先に吊るされている「杉玉」は大神神社から全国の酒蔵に届けられているそうです。
その証に杉玉の下に吊るされている札を見ると、全国どこの酒蔵でも「三輪明神・しるしの杉玉」と書かれています。
杉玉は「新酒が出来た合図」だと言うことです。
新酒が出来た頃に「青々とした杉玉」が吊るされ、一年かけて徐々に茶色になっていきますが、それが酒の熟成具合と言われています。

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少し行くと小さな鳥居がありました。

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「少彦名」(すくなひこな)を祀る「磐座神社」があります。

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拝殿さえ無く、御神体の磐座を直接拝するようになっています。

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くすりの道の先にある「狭井神社」(さいじんじゃ)に着きました。
正式には、「狹井坐大神荒魂神社」(さいにますおおみわあらみたまじんじゃ)と言います。

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境内に宗像三女神の一柱を祀る「市杵嶋姫神社」があります。

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その先に狭井神社拝殿が見えます。

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狭井神社は大物主の「荒魂」(あらみたま)を祀っていると云われていますが、本来はクシヒカタが出雲の幸神(サイノカミ)を祀った場所だと云います。
古くより華鎮社と称され、病気を鎮める神としての信仰が篤く、大神神社との両社で行う「鎮花祭」は、春花びらが散るのとともに、はやる疫病を鎮めるために行われます。

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狭井神社の拝殿の脇に「薬井戸」と呼ばれる御神水があります。

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薬井戸の湧水はご神体の三輪山から出ているそうです。
古くから万病に効くと言い伝えられ多くの人が訪れます。
江原さんも大絶賛の薬井戸の水は、大量に持ち帰ることはNGですが、少量ならばペットボトルに入れて持ち帰ることもできます。
近年では渇水であったりと、水量が減ってきているようで心配です。

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三国志・魏書に「その国はもと男子をもって王となし、続くこと7・80年。以後和国は乱れた」と書かれています。
この男王の時代とは、初代「天村雲」(神武天皇)、2代「沼川耳」(綏靖天皇)までの海・葛城王朝を指していると思われます。
3代「玉手看」(安寧天皇)以後は海家よりも出雲系登美家の血が濃くなり、磯城王朝になりました。
この時代はいわゆるヒメ・ヒコ制であり、当時の民衆には司祭者のヒメ(巫女)が、政治家のヒコ(大王)より尊敬されました。

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記紀には大王家だけが、大和の支配者であるかのように書かれています。
しかし実力があったのは第2代大王まで、3代大王以降には支配力は衰え、大和は畿内の3割ほどを領地として支配する状態でした。
旧事本紀に、大和の豪族3家の系図があるそうですが、その最初が「登美家」で、次が「尾張家」と、有力な順に書かれているそうです。
すなわち登美家が準大王の家柄だったと云うことです。
大和全体の支配力の順位は、磯城大王家から登美家・尾張家・高鴨家であり、それらの豪族が狭い大和地方で覇権を争っていた、と伝え
られています。
高鴨家は、西出雲王家の神門臣家が大和に移住した多岐津彦の家系です。

天皇という称号は弥生時代には存在せず、「大王」(おおきみ)の称号で呼ばれました。
天皇制は天武天皇の頃成立したと云われています。
持統女帝が命じ、藤原不比等が編纂させた記紀の編集方針の第一は「万世一系」を確立することでした。
つまり日本を支配するためにも、対外国に自分たちの由緒を正当化させるためにも、自分たちは天上世界から降臨して連綿と続く大王家の末裔であるというストーリーを創出することが必要だったのです。
渡来人の血筋が流れているとか、出雲王朝やその後の王朝を次々と倒してきた征服王朝という歴史は、隠されてきたと云われています。

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狹井神社では社務所で申し込むと、三輪山に入山する許可をいただけます。
三輪山は太古の昔から聖域で長年禁足地でした。
しかし、近年入山して登拝することができるようになりました。
敬虔な信者の方は、山自体が御神体なので裸足で登山します。

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三輪山登拝に際しは「午後4時までに下山」「写真撮影・飲食・喫煙は禁止」「山中の情報を口外しない」などいくつかの規則があり、絶対遵守です。
なのでこれ以上語ることはできませんが、片道90分ほどのそれなりに厳しい登山です。
実際に登頂してみて思うのですが、三輪山はやはり、本来侵すべきでない聖地でした。
山頂に広がる不思議な光景を眺めながら、近年解禁されていく禁足地の聖域に、微かに憂いを感じました。

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