奈良県桜井市にある「長谷寺」(はせでら)は、風光明媚な、僕の好きな寺院の一つです。
やや雑然とした、昔ながらの門前街を歩きます。
長谷寺は奈良と伊勢を結ぶ「初瀬街道」を見下ろす初瀬山中腹に伽藍が築かれた、真言宗豊山派の総本山です。
山号を豊山神楽院と称します。
また長谷寺は牡丹の名所としても知られていて、牡丹以外にも四季を通じて様々な花が楽しめることから、「花の御寺」という別名も有名です。
この日は牡丹は咲いていませんでしたが、早咲きの桜がちらほら見られ、日本の春の到来を告げていました。
境内入口には、重厚な「仁王門」が鎮座しています。
重要文化財に指定されている仁王門は、長谷寺の総門で、入母屋造り本瓦葺の楼門の門です。
一階には仁王像が安置されており、二階には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。
度重なる火災により焼失し現在の門は明治18年(1885年)に再建されました。
龍の彫り物も見事です。
長谷寺を象徴する建造物の一つが「登廊」(のぼりろう)です。
登廊は長暦3年(1039年)に春日社の社司「中臣信清」が我が子の病気平癒の御礼で寄進したとされています。
現存するものは近世以降に再建されたものです。
登廊はその名の通り、登り坂の廊下になっており、屋根付き399段の石段となっています。
まずはこの階段をひたすら登っていきます。
登廊は折れ曲がるように作られていて、下段・中段・上段に分かれています。
階段はやはり、なかなかなものですが、そこから見える風景はキツさを忘れさせてくれます。
ゆっくり、風雅を味わいながら登りたいものです。
さて、ようやく出口が見えてきました。
長谷寺は8世紀前半に「徳道上人」(とくどうじょうにん)によって建立されたと伝えられています。
「藤原道長」も参拝していたようで、「更級日記」や「源氏物語」などの古典文学にもその名が登場しています。
一時は衰退した長谷寺ですが、豊臣秀長の招きで和歌山県にある根来寺(ねごろじ)の僧侶「専誉」(せんよ)僧正が入山します。
根来寺は織田信長や豊臣秀吉との戦いで焼き討ちにされていますが、根来寺の僧侶たちは、専誉を頼って長谷寺に入山し、真言宗豊山派を築き上げました。
本堂は、本尊である十一面観音菩薩像を祀っている観音堂になります。
初瀬山中腹の断崖絶壁に「懸造」(かけづくり)という建築法で建っています。
本堂は奈良時代の創建後、室町時代の天文5年(1536年)までに計7回焼失しているそうです。
7回目の焼失後、本尊十一面観音像は天正7年(1538年)に再興(現存・8代目)しています。
本堂は豊臣秀長の援助で再建に着手し、天正16年(1588年)に新しい堂が竣工していますが、現存する本堂は、その後さらに建て替えられたものだと云います。
本堂には京都の清水寺とよく似た舞台があり、
長谷寺の伽藍や周辺の山々が一望できます。
眼下には往古を偲ばせるのどかな風景が広がっていました。
本尊は「木造十一面観音立像」で、春と秋に特別公開され、足元に触れる機会があります。
神亀年間(720年代)、近隣の初瀬川に流れ着いた巨大な神木が大いなる祟りを呼び、恐怖した村人の懇願を受けて開祖徳道が祟りの根源である神木を観音菩薩像に作り替え、これを近くの初瀬山に祀ったと伝えられています。
長谷寺の境内はとても広いので、余すことなく見て回るには数時間必要ですが、すこし散策してみます。
本堂そばにある「愛染堂」は、愛染明王を祀るお堂です。
縁結びや家庭円満のご利益がある仏様として参拝者の信仰を集めています。
ここから坂道を上っていきます。
「御影堂」(みえいどう)は、弘法大師御入定1150年を記念して昭和59年に建立したとあります。
「一切経堂」(いっさいきょうどう)は、室町時代末期の永禄4年(1561年)に牧野備後守成定によって再建され、堂内には江戸時代前期の寛文7年(1667年)に水野石見守忠貞が寄進した唐本一切経が収められていたそうです。
今は人の立ち入りが禁止されて久しいようです。
「本長谷寺」(もとはせでら)は、天武天皇の命令で徳道上人が作った最初の堂宇です。
現在の本堂に対し、本長谷寺と呼ばれています。
かつては、銅板法華説相図(どうばんほっけそうぞうず)が本尊として祀られていたと云います。
「三重塔跡」があります。
三重塔は豊臣秀頼によって再興されましたが、明治9年(1876年)に落雷によって焼失しました。
跡地には礎石と思われる石が並んでいます。
「五重塔」は、昭和29年(1949年)に建立されました。
戦後初めて建立された五重塔で、その美しさから昭和の名塔と呼ばれています。
今回足を運びませんでしたが、しばらく歩いた先に「奥の院」があるそうです。
奥の院は、真言宗を盛り立てて高野山を復興し、真言宗中興の祖として讃えられた「興教大師」(こうぎょうだいし)を祀る「興教大師祖師堂」や、「陀羅尼堂」、歴代住職の墓所などがあるそうです。
長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めました。
万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣したとあり、中世以降は武士や庶民にも信仰された寺院の一つです。
近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問寺としての性格を強めているそうです。
「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く240寺程存在します。
そのため、他と区別するため当院は「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称することもあるそうです。
多くの建造物が戦火で失われ、再建されていますが、それでも当時の趣を境内一帯に残す山間の寺。
往年の歌人にも愛された長谷寺へ、花を愛でにまた訪れたいと思いました。