「建津乃身様、物部の使者が参っております。」
「うむ、少し待たせておけ。」
登美家の当主、建津乃身は思案していた。
目の先に映る神山・三輪山は、日の光を受け青々と輝いている。
「毒を抑えるには、やはり毒をもって為すしかないのか。」
当主が毒と例えたのは、とある一人の男を祖に持つ二つの部族「尾張家」と「物部家」を指していた。
古来、登美家は尾張家に協力し、磯城大和王朝を築き上げて来た。
双家の関係は長らく良好で、和国一の王国は、平和な治世が続いていた。
しかしここに来て、7代フトニ大王が、但馬のヒボコ軍が播磨を攻めたのに乗じて、息子らを連れ立って播磨・吉備へ遠征した。
播磨・吉備は登美家のふるさと、出雲の領地だったが、フトニ大王はあろうことか、さらに出雲までも攻め始めていた。
遠征で大王不在となった大和も、各部族間の争いが頻発するようになり、荒れだしている。
建津乃身は心を痛めていた。
彼は出雲を救い、大和に元の平和を取り戻したかった。
しかし、彼の力だけではそれに及ばないことも承知していた。
「物部の従者よ、そなたらの当主に急ぎ戻って伝えるが良い。
私がそなたらの籠る紀伊国に赴き、この大和まで無事辿り着けるよう道案内致そう。
ただし、それには一つ約束がある。
物部の王は、我ら登美家と手を組み、共に大和国の平和の治世に尽力いただくこと、と。」
従者は畏まって、すぐに自らの当主の元へ去っていった。
物部の軍が大和入りすれば、フトニ王の出雲侵攻の歯止めにもなろう。
建津乃身は部下に命じて、さっそく紀伊国入りの準備に入らせた。
が、彼に一抹の不安がよぎる。
物部・尾張に流れる渡来人の血、それは出雲に裏切りをもたらした歴史でもあった。
尾張家の前身、海家はかつて、出雲の王・副王を暗殺した疑いがあった。
そしてこの度フトニ王は、親戚であるはずの出雲王国を、鉄欲しさに攻めているという。
果たして物部が我らを裏切らない保証はなかった。
しかし今、他に選択肢はない。
建津乃身は黒い衣を身にまとい、毒を飲む心地で登美家の屋敷を後にした。
奈良県宇陀市の田園の中に、「八咫烏神社」(やたがらすじんじゃ)が鎮座します。
「日本書紀」によると、初代天皇とされる神武はこの国を統べるべく、西の宮崎を出発し東の大和を目指します。
一行は瀬戸内海を渡り紀伊国(和歌山)に上陸しますが、賊軍に襲われ、熊野の中州に留まらざるおえなくなります。
この時、この土地の豪族で偉丈夫の鴨族「武角身命」が、神武天皇を熊野から大和へ道案内したことが記されています。
当社の由緒によると、武角身命は全身真黒い衣をまとい、高い木より木へと飛び移って宮居の方に天皇をご先導申し上げた、と云うことです。
その姿が恰かも八尺もあるような大烏の様であったので、天皇はその勲功を賞でて「八咫烏」の称号をお与えになった、そうです。
武角身命とは、出雲王家の親族である大和の登美家当主「賀茂建津乃身」(カモノタテツノミ)のことです。
登美家は「賀茂家」とも呼ばれてました。
賀茂は「神」が訛った呼び名です。
「賀茂家」と「高鴨家」は混同して伝えられていますが、両家は別の家系になります。
賀茂家は東出雲王家から大和入りした「クシヒカタ」から連なる登美家の呼び名であるのに対し、高鴨家は西出雲王家から大和入りした「多岐都彦」に連なる家系となります。
7代大和大王「フトニ」は播磨・吉備を制圧し、「吉備王国」を造りだします。
そして吉備王国はついに親戚筋にも当たる「出雲王国」を攻撃し始めたのです。
建津乃身はこのことに心を痛め、残念に思っていました。
しかし登美家は、出雲王家を助けるだけの武力は持たなかったのです。
フトニが吉備へ移り、葛城政権が分裂した大和では、これを統一できそうな勢力はありませんでした。
そこで、次に大和を統一できるのは、熊野で足止めを受けている物部勢以外にないと建津乃身は考えました。
そこで、登美家は熊野勢を大和地方に導き入れ、共同の政権を造ることを考えます。
登美家と物部の一行は密使を送り合い、連絡を取り合っていたようです。
熊野川中流の中洲(大斎原?)にある物部勢の本拠地に、熊野南岸各地に住む九州から移住した若者たちが集められ、物部勢は熊野川支流の北山川に沿って北進することになります。
この時、物部軍指揮官「ウマシマジ」の前を、建津乃身が道案内しました。
途中からは、一人ずつしか通れない狭い道になり、進むのは難儀でしたが、目立たず、戦闘なしに大和に向かうには、この道が最良でした。
この事件を物部氏の関係者は「八咫烏の道案内」と称しました。
それは、登美家の「賀茂建津乃身」の名前が鳥に似ていたことや、登美家が三輪山の太陽神を崇めていたことが由来のようです。
ヤタガラスは三本足を持つ烏のことですが、太陽に三本足のカラスが住むという話は、中国に由来すると云います。
中国の神話では、扶桑の木の梢に鳥がいて、それは太陽のシンボルだとされているそうです。
物部氏は中国から渡って来た秦族(斉国)の子孫なので、ヤタガラスの神話を知っていたのでしょう。
建津乃身とウマシマジらはやがて宇陀に達しました。
ここで一行は、全員の到着を待ち、物部勢の当座の食料を登美家が用意したそうです。
当社や熊野にある同名の八咫烏神社は、物部の子孫がこの建津乃身の道案内に感謝し、建てたものと云います。
開放的な拝殿の先に、急な階段があり、その先に本殿が見えます。
本殿は、塗装し終えたばかりのような艶やかな朱色の玉垣に囲まれています。
その姿は稲荷社を彷彿とさせます。
稲荷社も、物部族が製鉄神や穀物神を祀ったのが始まりだと云うことのようです。
やがておびただしい数の物部の軍勢が字陀に集結しました。
その時、旧葛城・大和軍の多くは吉備に移住して不在し、残った王族も分れ離れで、兵力は弱体していました。
それで大和の各集団は、怖れをなし、一部は生駒山地で防備を固め、一部は山城国の南部に移住したと云うことです。
その後、物部軍は墨坂を通って進軍し、登美家の地盤である三輪山の西南「磐余」(いわれ)付近に落ち着いたと伝えられます。
熊野から磐余に着くまで、結局戦いらしいものは無かったと云います。
神武天皇の名「伊波礼彦命」という名前はこの地名に基づいて後で作られました。
記紀の作者は、初代大王「天村雲」の名前を隠し、初代大王を伊波礼彦に変えるという歴史の改ざんを行います。
この神武東征を古事記は次のように記しています。
伊波礼彦命が熊野村に着いた時に、「高木神」(ニギハヤヒの母)が教えて言われました。
「御子はここから奥に入ってはいけません。八咫烏を遣わすから、その後を行きなさい」
教えのままに行くと、吉野川の河尻に着きました。
さらに古事記は不可思議な記述を残しています。
饒速日命の御子「宇摩志麻遅命」(物部氏の祖)が、荒ぶる神を和らげ、従わぬ者たちを除き、樫原の宮で大王となられ、政治を行なわれた、と。
すなわち、「伊波礼彦」が消えて、「宇摩志麻遅」(ウマシマジ)が大王となられたように書かれています。
記紀にこのような不可思議な記述がある場合は、それは歴史の改ざんを行わざるを得ない筆者が、なんとかその事実を伝えようとした暗号である、その可能性が高いことを示しています。
175年頃、物部の勢力が大和地方に侵入すると、宗教戦争が起きたと云います。
銅剣、銅鏡を祭器とする物部族は、大和の人々が銅鐸の祭りをすると、これを集団で襲って銅鐸を壊してまわりました。
そして恩知らずなことに、登美家の聖地「三輪山」も彼らは支配してしまいます。
以降、大和勢力と物部勢力の争いは頻発し、建津乃身の思い虚しく、しばらくの間、国はますます荒れることになるのです。