三女神社:親魏倭王ノ都 04

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宇佐家が豊国の王家になったのは、かなり古い時代のことである。
宇佐家は古くから、女系相続だった。
つまり豊国は女王が治める王国であった。

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大分国東半島にある安心院盆地の一角に「三女神社」(さんみょうじんじゃ)があります。
参道入り口は道路沿いにあり、つい通り過ぎそうになります。

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当神社の三女とは「宗像三女神」のことです。
宇佐神宮の比売大神は、この三女神のことであると伝わり、彼女らが降臨した場所が当社の由来となっています。

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しかし参道に入ってすぐに一つの謎に出会います。
一ノ鳥居の扁額を見ると「二女神社」とあります。
比較的新しいこの鳥居に、明らかに「二女」と表記されているのには、何かしらの意思・意図を感じます。

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これは宇佐に降臨した神が「三女」ではなく、本当は「二女」であったということを、誰かが暗に伝えようとしているのではないでしょうか。
宇佐神宮に祀られる「比賣大神」とは宗像三女神のことではなく、「卑弥呼」とその娘「台与」である、と伝えたいのではないかと思われました。

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古代には豊前と豊後に別れる前、東九州から西中国にかけての地域は「豊王国」と呼ばれていました。
当時、山口県西部の長門国は、豊王国領であったことから、「豊」の付く地名が今も多く残っています。

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豊王国を治めた一族が「宇佐家」だったと云います。
『三国志』「魏書」に書かれる、和国が中国の魏と国交を持った頃、豊王国では「月神」を信仰していました。

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もとい、昔の日本は「月の女神」の信仰が盛んであったと云います。
当時の暦は太陰暦でツイタチ(月始め)からツゴモリ(月末)までの日付は、月の満ち欠けで決められていました。
人々は夜空に浮かぶ月の形で暦を読んだので、月を「月読尊」と呼んで尊敬したそうです。
古代人にとって月の信仰は、今よりはるかに身近なものでした。

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太陽神を天道様(てんとうさま)というのに対し、月神は「陰の神様」とも呼ばれました。
夜道の月光を有難がり、月神に感謝して「お陰様で」と言うようになったそうです。

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豊王国は「月読尊」を特に崇拝したと云われ、当然、宇佐宮では月読尊が祭祀されていました。
当時から、月の中にはウサギがいると云われていて、月読尊は「ウサギ神」とも呼ばれました。

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豊王国の王家が祭祀する宮の神は「月の女神」(月読尊)であったので、そこは「兎社」と称したそうですが、その後で「ギ」が抜けて、「宇佐宮」になったと云うことです。

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宇佐宮を建てた王家も「ウサ家」と名乗ったそうですが、これらのことは、宇佐公康著「古伝が語る古代史」にも記されているということです。

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宇佐王家の一族は、名前の一部にもウサギ神の「菟」の字を使った者が多かったようです。
「豊後国風土記」総記には「豊国の直らの祖先である菟名手」とあり、「神武即位前紀」には「そこから進んで筑紫の国の菟狭に到着された時に、菟狭国造の祖がいた。名を菟狭津彦・菟狭津姫という」と記されています。

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また「豊国」という呼び方が、物部政権の「御真木入彦王」(イニエ王/崇神天皇)の頃、すでにあったことが『豊後国風土記』に書かれているそうです。

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三ノ鳥居を通り過ぎると、参道を折れるように本堂への入り口があります。

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参道を歩いて思ったのですが、当社は少し、寂れた印象を受けました。

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部分的にではありますが、壊れるままに放置されている箇所など見受けられます。

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拝殿を覗くと、

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三姉妹分のお供えがしてありました。

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以前お伺いした時もきちんとお供え物がありましたので、氏子の方々のご信仰は、むしろ厚く続けられているようです。

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拝殿内はとてもきちんと手入れがしてあり、清浄です。

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数多くの絵が飾られていますが、特に目を引くのが「三女神」の縁起を描いたものです。

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「二女」と書かれた一ノ鳥居、荒れかけた境内、複雑な事情を感じさせる当社ですが、宇佐に祀られる比賣大神が「卑弥呼」であるとして、宗像三女神との関連はあるのか、ないのか。

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宗像三女神の生い立ちを見てみます。
6代出雲王「臣津野」の息子「吾田片隅」が宗像家の宗家となります。
その吾田片隅が儲けた三姉妹が宗像三女神でした。
うち、長女の「田心姫」(多紀理姫)は7代出雲王の「天之冬衣」に、次女の「多岐津姫」は8代出雲王の「大国主・八千戈」に嫁ぎ、それぞれ出雲方面で生涯暮らしています。
では三女の「市杵嶋姫」は?
彼女は筑紫の「饒速日・徐福」の元へ嫁いでいますが、彼女のその後暮らした場所や生涯といった情報は、あまりありません。

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当時の日本は母系社会であり、「妻問婚」でしたので、妻は実家で暮らすのが常でした。
なので、市杵嶋姫の宮は宗像大社辺津宮だったのかもしれません。
夫である徐福は中国の渡来人ですので、父系社会の人ですから、あるいは佐賀の自分の屋敷に招いた可能性もあります。

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いずれにせよ、九州に残った市杵嶋姫の子孫が卑弥呼であるとすれば、宇佐の比賣大神を宗像三女神であるとするのも納得がいきます。
卑弥呼とは中国の古い書物に記される名であり、そもそも蔑称です。
本来の呼び名は「姫巫女」であり、数人の女性を指す呼称です。
その中でも一般に私たちが「卑弥呼」で思う人物は、魏国から「親魏倭王」の称号を受けた女王であり、それは宇佐・豊王国の「豊玉姫」を指しています。

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豊玉姫が市杵嶋姫の末裔であるとするなら、豊玉姫が亡くなった瀬戸内の小島を「市杵島=厳島」と呼んだのにも納得できます。
しかし歴史は、彼女の存在、豊王家の存在を隠したかったようで、記紀では彼女は龍宮の乙姫神話に変えられ、各社の祭神も、その名が隠されてきたのです。

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拝殿を出ると、横には「貴船神社」があります。

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境内を歩いてみると、不思議な石が置かれているのに気がつきます。

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「三柱石」(みはしらいし)というものがありました。

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天照大神が天から石を投げ、そこへ降臨せよと三女神に命じた石と伝わります。

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「この石の根元をみようと掘り返せば、宇宙闇然(あんぜん)風雨に至り、大地振動してその声雷の如し」と伝えられます。

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これらの石は、安心院の米神山麓にある佐田京石(ストーンサークル)のものと酷似しています。

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また、「皮籠石」(かわごいし)なるものもあり、

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仁聞菩薩が訪れた時に刻んだものだと伝わります。

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これらの霊石が鎮座していることからも、当地が往古より重要な聖地であったということを示していますが、それにしてもやはり荒れた感は否めません。

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さて、正門入り口に戻ると、「水沼井」と書かれた看板があります。
水沼井と書いて、「おみず」と読ませています。
しかしあたりを見回しても、境内を歩き回っても、そんな井戸のようなものは見当たりません。

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とりあえず入ってきた参道を、反対側に進んでみます。

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細い道が続いていました。

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「水沼井」の名前ですが、「水沼氏」(みぬまし)という謎の古代氏族がいます。
記紀の本文では宗像三女神を祭祀する氏族は「宗像氏」と記していて、それは今日も広く認識されています。
しかし「日本書紀 卷第一 第六段 一書第三」では「水沼君」が宗像三女神を祀ると記しているのです。

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「日本書紀」によれば景行天皇と襲武媛(そのたけひめ)の間に生まれた「国乳別皇子」(くにちわけのみこ)が水沼氏の始祖であるとしています。
国乳別皇子は、神功皇后の三韓征伐に弓頭(もしくは弓大将)として従ったとされ、現在の久留米市三潴町(みづままち)にある弓頭神社に祭られています。
つまり三潴町とは水沼町だったというわけです。

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水沼氏は神功皇后の時代に、宗像三女神を祀る一族として、宗像家に取って代わったかのような存在感を示しますが、そのあと忽然と姿を消してしまいます。
しかし地方の聖地に微かに記される水沼の名を辿っていくと、筑後から宇佐へ、この水沼井に行き着きます。
確証はありませんが、市杵嶋姫の子孫が水沼氏であり、宇佐家の祖となったとは考えられないだろうかと思っているところです。

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結局参道を反対側に歩いてみましたが、水沼井はありません。
こちらは裏参道のようでした。

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ネットで調べるも水沼井の情報はほとんど見つかりません。
が、かすかに手がかりがあり、なんとか探し出してみました。

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それはいったん三女神社を出て、目の前の川を渡り、その先のガソリンスタンドを裏手に回ったところにありました。

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三女神が降臨した際、産湯に使った「天真名井」(あめのまない)が高天原(高千穂)から後を追ってきたと言う伝説です。

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わりと新しい建物の中に井戸があります。

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干ばつの時も枯れることのない、神秘の水ということ。

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水沼井から三女神社を望むと、そこはこんもりとした丘が見えていました。

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