247年、宇佐豊玉姫が派遣した魏国への使節団に、「武内大田根」(タケシウチオオタネ)という男がいた。
彼は磯城・大和王朝8代クニクル大王(孝元天皇)の孫であり、彦布都押信(ヒコフツオシマコト)と紀伊国の山下影姫との間に生まれた御子だった。
彼は物部の重鎮に与えられる称号「宿禰」を与えられ、「武内宿祢大田根」と呼ばれていた。
当時の磯城・大和王朝では、10代大王の「日子坐」(ヒコイマス)が老衰状態で、彼の子ら「彦道主」(ヒコミチヌシ)と「沙本毘古」(サホヒコ)、「沙本毘売」(サホヒメ)らが跡目を巡って内戦状態であった。
そんな折、彦道主の元に、都万王国が魏から銅鏡を100枚もらったという情報が伝わった。
それを聞いた彦道主は、大和にいる呉の鏡作り工人に三角縁神獣鏡を作らせようとした。
しかし三角縁鏡を数10面作ったところで、青銅の地金が不足してしまった。
それで彦道主と親しかった都万の武内大田根に密使を送り、帯方郡から青銅の地金を買い、追加の鏡作り工人を連れてくるように頼んだ。
…….
長い船旅の末、武内大田根は帯方郡にたどり着いた。
そこで帯方郡の長官「王願」(オウキ)に日本の詳しい戦況を聞かれた。
敵将の名を聞かれた武内は、「ヒコミチヌシノミコ」と争っていると伝えた。
魏の役人はこれをクナ国の頭の名前と受けとり、「魏書」に次のように記した。
「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斯鳥越等詣郡相攻撃状」
([正始8年/247年]和の女王ヒミコは、狗奴国の男王卑弥弓呼[ヒミクコ]と、以前から仲が悪かったので、載斯鳥越を帯方郡に遣わし、お互いに攻め合っている様子をのべさせた)
「卑弥弓呼」は、ヒコミチヌシノミコという長い和名を簡略化して表記されたものだった。
また「武内」(タケシウチ)は、「載斯鳥越」の表記になっている。
武内大田根は、王願が洛陽から帰って来るまで、帯方郡で待たされた。
武内はイクメ王が貰ったように、自分も銀印青綬を貰いたいと密かに思っていた。
しかし洛陽から王願が持ち帰った魏王の詔書には、武内が期待していた「率善中郎将」の位について何も書かれていなかった。
当然、銀印も貰えない。
武内は、衝撃を受けた。
彼は都万王国第一の重臣「ヒコフツオシ」の息子であって、イニエ王にも重用されていた。
但馬の豪族に過ぎない田道間守が、率善中郎将に任命され、自分より格下の物部十千根が率善校尉に任命されていた。
二人とも銀印を授かっている。
これについて、実は豊玉姫は武内の才能を恐れ、自分の子の豊彦より偉くならないようイクメ王と謀り、自らが書いた詔書に武内に位と印を与える願いを書かなかったのだ。
武内は、怒りが込み上げてきた。
彼は帯方郡で中国産の青銅を買い込み、鏡作り工人を雇って、青銅を和国まで運ばせた。
武内大田根が帰国するとき、帯方郡の役人「張政」が和国に一緒にやってきた。
筑前国伊都に着くと、そこには田道間守が出迎えに来ていた。
張政は田道間守を和国第二の実力者と見なし、詔書と二度目の黄色幡、及び木簡の戦闘命令書を授けた。
ここでも武内は、プライドを傷付けられた。
「もうここに用はない。」
このとき武内大田根は九州物部勢に見切りをつけ、大和に寝返ることを決意した。
奈良の磯城郡田原本町に「鏡作坐天照御魂神社」(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)があります。
「鏡作神社」(かがみつくりじんじゃ)と一般には呼ばれているようですが、富家伝承によれば、ここは物部から大和に寝返った武内大田根が、三角縁神獣鏡を造らせた場所の一つと伝えています。
神社由緒には、「天照大神が天の岩戸に隠れた際、八咫鏡をつくったと伝わる石凝姥命など三神が祀られている。古くから鏡づくりの神として信仰を集めてきた。」と云うことです。
主祭神は「天照国照日子火明命」(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト)、「石凝姥命」(イシコリドメノミコト)、「天糠戸命」(アメノヌカドノミコト)。
美の神として技術向上を願う美容師や鏡業界の関係者の参拝も多いそうです。
物部・豊勢から離反することを決めた武内大田根は、都万に行き女王豊玉姫に報告した後に、故郷の紀伊国(和歌山)に一時帰郷すると伝えました。
彼が紀伊へ向うと、彼の郎党が密かに、買い込んだ青銅と呉の鏡作り職人二人を連れて後を追いました。
武内大田根は帰化した呉の工人たちに、大和で和人好みの鏡を作るよう求めました。
当時の和人は、大型の鏡を好んだので、鏡を大型に作るよう指示したと云います。
ところが銅鏡は大型にすると、割れやすくなってしまいました。
そこで銅を節約しつつも丈夫にするために、鏡の縁を厚く三角縁にする方法が採られました。
そうして出来上がった銅鏡が「三角縁神獣鏡」であったと云います。
これを磯城王朝の彦道主が好み、大量に買い入れました。
また登美家も大量に注文したそうです。
武内大田根は、良い鏡ができるように、鏡工人が住む村に「鏡作神社」を建てました。
それがこの鏡作坐天照御魂神社です。
境内に「鏡石」という神跡があります。
鏡工人は鏡の研磨の前に、この鏡池で身を清めたそうです。
そして、この鏡石の石の中央の窪みに銅鏡をはめ込んで固定し、金剛砂と水をかけながら鏡面仕上げをしたのではないかと云うことです。
鏡石は鏡池の中から発見されました。
また当社の神宝に三神二獣鏡があるということです。
豊玉姫が魏から受け取った銅鏡100枚に対抗して作られた三角縁神獣鏡は、実に400枚以上になったと云います。
これを買い取った彦道主らは、大和側の豪族に配り勢力を強めようとしました。
後世の学者の中には大和地方から発掘された三角縁神獣鏡を、ヒミコの鏡だと言う人がいます。
それが大和・邪馬台国説を裏付ける証拠の一つだと主張しました。
しかし中国の考古学者「王仲殊」が、「三角縁神獣鏡は、和国製である」と主張するように、それは魏から贈られた鏡ではないのでした。
三角縁神獣鏡は中国では1枚もないこと、三角縁鏡の「傘松型の幡模様」は中国鏡にはないこと、中国の神獣鏡はすべて平縁であること、などが理由であるということです。
武内大田根は自分用に、三角縁神獣鏡を数10面作らせたそうです。
その鏡には、自分が使者として魏領まで出掛け、悔しい思いをしたので、魏の年号を記念に入れました。
それが武内大田根の古墳とされる出雲の神原神社から発掘されました。
当然、そこに刻まれた魏の年号は、豊玉姫が魏に使者を送った年号と同じでしたので、三角縁神獣鏡がヒミコの鏡であると勘違いされる一因となったと思われます。
ところで主祭神の「天照国照日子火明命」、いわゆる「ホアカリ」は渡来人「徐福」が和国で名乗った名の一つです。
徐福は支那秦国の道教の方士でした。
彼は物部家、尾張家の始祖であり、神獣鏡は道教の神獣たちを彫っているので、工人達は彼を崇拝したのかもしれません。
本殿は朱塗りの美しい三間社春日造でした。
記紀は大和王朝9代「大日々」(開化)大王の後を、九州にいた物部イニエ王にして崇神天皇と記しています。
しかし実際の10代大王は大和の「日子坐」(ヒコイマス)であり、11代はその子「彦道主」でした。
ヒコイマスの官廷は、大和盆地の東北「和邇」の地にありました。
都万王国の豊玉姫やイクメ王の軍勢が東征してくるという頃、没したヒコイマスの跡目争いが彦道主と沙本毘古らの間で起こりました。
大和を中心に渦巻く騒乱の波は、ついに出雲にも降りかかり、700年以上続いた日本最初の王国は、終焉を迎えようとしていました。