出雲市多伎町の国道9号線山陰道沿いに「小田神社」があります。
交通量の多い道沿いではありますが、当社の存在感はかなり希薄です。
なんとか車を停め、小高い丘を登ると社殿が見えてきます。
当社の祭神は、「彦火々出見尊」(ヒコホホデミノミコト)、物部のイクメ王に相当する神の名です。
また富家伝承によれば、彦火々出見尊は、饒速日命と市杵嶋姫命の御子とされています。
小田神社の鎮座地は、第2次物部東征において、出雲を攻める物部軍の最前線基地であったと云います。
物部の「朝倉彦」は、豊彦の息子「八綱田」と「菟上王」を率いて、日本海を東に進んできました。
物部神社の場所に駐屯基地を設置し、前線基地にこの場所を選びました。
この先は出雲平野が広がる場所となりますが、当時は海が海岸線よりもっと陸地側に迫っていたでしょうから、ここは小島だった可能性があります。
山崎帯(ヤマサキタラシ)王をはじめとする西出雲王家は陸伝いに、南側から物部軍が攻めてくると予想し、大きな堀を幾重にもめぐらせ、兵を配置して待ち構えたそうです。
その堀がどのようなものだったか想像してみましたが、吉野ヶ里遺跡にも防御用の堀が再現されていました。
おそらくこんな感じだったと思われます。
この規模の堀は、数日程度では造れなかったでしょうから、吉備戦を教訓に、その後から造築されていたものと思われます。
境内案内図を見て、ちょっとびっくりしました。
ちょっと高い、見晴らしの良いところに恵比須社が祀ってありました。
恵比須とは一般に、出雲族の事代主のことです。
敵であった国の副王を祀っていることになります。
万全の体制で迎撃の準備をした西出雲王国「神門臣家」でしたが、朝倉彦らは守りの弱い、防御用の堀のない所をまるで知っているかのように、神門水海(神西湖)方面から進撃してきました。
これは出雲王国に世話になっている、穂日家の「韓日狭」(カラヒサ)と息子「宇加都久奴」(ウカツクヌ)が東征軍側におもむいて、その道を教えたと云うことです。
記紀の中で天穂日は、国譲り神話では一番に天孫族を裏切り、大国主側に恭順したように書かれているのに対し、天孫降臨神話では一転して、天孫ニニギに従って地上に降りるのです。
また、日本各地の各神社の由緒では影の薄い穂日が、出雲ではその偉大さがことさら強調され、地上を平定した偉大な神として記されています。
従って、穂日と、それに連なる系譜には、ちょっと別の視点から考察してみる用心が必要であると、感じるのです。