往馬坐伊古麻都比古神社:八雲ニ散ル花 52

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生駒山地を越え、苦難の末に大和入りを果たした物部イクメ王、彼を正式に祀っているとおぼしき神社が奈良県生駒市にありました。
「往馬坐伊古麻都比古神社」(いこまにいますいこまつひこじんじゃ)です。

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やや辺鄙なところにありましたが、参道に近づくと、境内がかなり広いことに驚きます。

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往馬坐伊古麻都比古神社は「往馬大社」(いこまたいしゃ)「生駒神社」(いこまじんじゃ)と呼ばれています。

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「正式に祀っているとおぼしき」と書いたのは、その祭神表記が怪しく、また由緒もあやふやだからです。

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奥に高い石段があります。

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手前に禊場がありました。

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今もここで、身を清めて参拝する人がいるのでしょうか。

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石段を登ります。

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手水舎、

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狛犬が並びます。

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イクメ王の軍勢は狭穂彦との同盟をとりつけ、一気に大和になだれ込みました。
この勢いに押された和邇の彦道主王はついに大和を離れ、丹波へ移住します。

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ここに磯城・大和王朝は終焉を迎え、物部勢がスムーズに大和を支配していくかに見えました。

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しかし今回の東征には、様々な有力者の思惑が、複雑に入り混じっていたのです。

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長い階段を登り終えると、立派な拝殿が鎮座していました。

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心が静まる瞬間です。
しかし本殿を見てびっくりしました。

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右に、

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左に、ずらりと並んだ本殿。
7棟あります。

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そこに数々の神が祀られています。
イクメ王は「伊古麻都比古」の名で祀られ、后神も祀られています。
「伊古麻都比賣神」はサホ姫のことと思われますが、後妻のヒバス姫かもしれません。
イクメ王は産土大神とその存在をうやむやにされ、かつ神社由緒にも明確な記載はありませんでした。
代わりに有名人気な神功皇后ファミリーが祭神として挙げられているのです。

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他にも20社ほど、境内社があり、神様デパート状態になっています。

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実際、大和に物部王朝は成立しましたが、イクメ大王時代には支配地は近畿方面だけであったと云います。

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故にイクメの存在感は、日本にさほど強くは残らず、正式に祀る神社も少ないということなのかもしれません。

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次の大王、「オオタラシ彦」(景行)大王は先祖の地、九州方面に遠征し、九州の支配を確実にしました。
本来は将軍を任命して地方に派遣するのですが、オオタラシ大王の権力は強くなかったので、当時は大王がみずから地方に遠征せざるをえなかったのです。
記紀は大王が都を空けて、将軍のように地方征服をしたことを恥ずかしく思い、その大部分を隠したかったようです。
その史実を架空の王子「ヤマトタケル」の神話に変えて記しています。

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磯城・大和王朝の大王と目される彦道主を退け、物部・大和王朝の王となったイクメ。
しかし彼が真の大王となるには、まだ最後の敵が潜んでいました。
彼の道に立ちはだかるラスボスは、外ではなく内部にいたのです。

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イクメ物部軍に遅れて大和入りしたのは、豊玉姫の葬儀を終えてやってきた「豊彦」と「豊姫」の軍でした。
豊姫は豊玉姫の娘であり、月読みの神の巫女でした。
兄の豊彦は、イクメが、妹を差し置いて三輪山の太陽神の姫巫女、狭穂姫を后に迎え、狭穂軍と同盟を結んでいることに腹を立てます。
そこで狭穂彦はイクメ王に言い寄り、狭穂姫と縁を切るよう強要したのです。
さらに狭穂彦は三輪山を攻め、占拠して登美家を排除し、狭穂姫に三輪山の麓で月読みの神を祀らせました。
これにより、大和の一角に、豊王家の支配地が生まれたことになります。

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また田道間守も野心を持つ人でした。
彼は但馬から連れてきた軍勢を率いて、勝手に奈良盆地の西南部に攻め込んで占領しました。
田道間守の支配地は、彼の出身地「タジマ」が訛って「タイマ」(当麻)と呼ばれました。
領地を広げた田道間守は、自分が西軍の王であるかのように振る舞いだします。
更に彼は、妹のことでイクメ王に裏切られらと感じていた狭穂彦と手を結び、イクメ王の軍を襲撃して自分が大和の王になろうと陰謀をたくらんだと云います。
イクメ王は田道間守に対し、狭穂彦の軍を追い出すように命じましたが、彼の軍は動くことはありませんでした。

様々な思惑が交差する中、新生大和王朝は不穏な空気を孕んでいくのでした。

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