劔神社:八雲ニ散ル花 番外

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秋上家の祖「物部十千根」の古墳が、松江市八雲町北端にあります。

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そこは「岩坂陵墓」(いわさかりょうぼ)と呼ばれる古墳です。

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それは八雲町の西側、大庭町との境にある神納峠(かんなとうげ)沿いにあり、そこだけこんもりとした杜になっています。

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出雲地方の地誌で享保2年(1717年)にまとめられた『雲陽誌』によると、
「神納山は剱山から500メートルほど離れており、男神イザナギを追った女神イザナミが、みずから魂をこの地に納めたところであるので神納という」
と記されています。
剱山は、男神イザナギが黄泉の国から剣を打ち振いながら逃げ帰ったことに由来すると云うことです。

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秋上家は確かに、出雲王国を侵略した物部側の一族でしたが、講和締結後は一定の敬意を向家に抱いていました。
なので、出雲王国を侵略した物部軍の歴史を、人々がいつまでも覚えているのを、秋上家は好まなかったようです。

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物部十千根命の名を隠したいと思った子孫は、神魂神社の祭神にちなんで、十千根の古墳をイザナミの陵墓と称するようになったと云うことです。

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神納峠より東に伸びる舌状の山は「剣山」と呼ばれ、男神イザナギが黄泉の国から剣を打ち振いながら逃げ帰ったことに由来すると云います。

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その山頂に鎮座するのが「劔神社」です。

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参道入口はわかりにくいところにありました。

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鳥居の先は急で狭い、百数十段の石段があります。

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階段を登り終える頃、社殿が見えてきました。

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苔むした、少し広くなった場所に出ました。

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そこにあった社は劔神社ではなく、境内社の日吉神社でした。
祭神は大己貴命となっているようです。

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さらに奥に階段があります。

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階段を上った先には、まるで箱庭のような美しい境内と、天空の神殿がありました。

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古びた石の階段と、重厚な苔の絨毯。

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イクメ王の東征によって生まれた物部・大和王朝は、短く3代で終わりました。
物部政権から派遣された秋上家は、出雲でついに勢力を失うことになります。
秋上家は旧東出雲王家の宮殿に住んでいましたが、気がひけて向家に元宮殿を返すと連絡しました。

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秋上家は、宮殿内に祭っていた物部氏の神「布都御魂」を、意宇川の右岸の丘の上に遷すことにしました。
それが当社であると云う事です。

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秋上家の申し出を聞いた向家は、しかしながら元宮殿を受け取るのを辞退しました。
それならばと、秋上家は元宮殿を神社に変え、旧出雲王国の国教「サイノカミ」を、祀ろうと考えます。
しかし元の神の名前を使うのは、好まなかったので、クナト大神をイザナギに、佐毘売大神をイザナミに変えて祀りました。
それが今の神魂神社です。

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向家は、秋上家が旧宮殿をそのままの形で守ってくれた事、サイノカミを祀ってくれた事などに感謝したと云います。
その気持を表すために、美保神社の千木を出雲式の縦削ぎと、物部式の横削ぎを合わせた社殿として建て、向家と秋上家が仲良く出雲の地で暮らそう、という方針を示しました。

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それと同じ意味の千木が、劔神社の本殿にもありました。
現在では、男神を祀る神社の千木が「縦削ぎ」、女神を祀る神社の千木が「横削ぎ」であるというのが通説ですが、古来は、出雲王国が建てた社の千木の象徴が「縦削ぎ」であり、それに対し佐賀の物部王国が建築した社の特徴が「横削ぎ」であったと云う事です。
劔神社の千木は手前が縦削ぎで、奥が横削ぎになっています。
それは先住の出雲族と、九州系の人々とが、恩讐を越えて協力し、未来の出雲を築いて行こうという理想を示していました。

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本殿を見守るように、小さな境内社が二つ建っています。

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一つは稲荷社で、

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もう一つの藤森神社には、日本書紀の編纂に携わったという「舎人新王」(とねりしんのう)が祀られています。

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物部軍の侵攻により、出雲王国は滅亡しましたが、王国が700年にわたって築いた「和の心」は、敵であった者とでも繋がり、未来を築いて行けることを今も残し伝えています。

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出雲の劔神社は、そんな約束をひっそりと今に紡ぐ、天空の神の箱庭でした。

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