『倭姫命世記』(やまとひめのみことせいき)という書があります。
大和姫の巡行の様子は『日本書紀』に断片的に記されていますが、他にそれがはっきりと記された書物は皆無と言っていいのが現状です。
いや唯一、その行程が詳しく記されているのが『倭姫命世記』だということです。
しかしながら『倭姫命世記』は残念なことに、現在でも「偽書」とされ、史実と認められていません。
『倭姫命世記』は神話の天地開闢から、天照大神が伊勢神宮の皇大神宮に還幸するまでの話が記されているのですが、豊鍬入姫と、ことに倭姫の事跡が事細かく伝えられているそうです。
それが偽書と云われるのは、本書は神護景雲2年(768年)、五月麻呂(さつきまろ)の撰と伝えていますが、実際は建治・弘安(1275-1288年)の頃に、当時伊勢神宮の外宮である豊受大神宮の神官だった「渡会行忠」(わたらいゆきただ)によって記されたものだというのが理由のようです。
『倭姫命世記』というのは度会氏が伊勢神道(度会神道)の根本経典とした「神道五部書」(しんとうごうぶしょ)という5つの書の中の一つ。
この経典は、祭祀する外宮が内宮より格下に扱われるのを憂いた氏が、外宮を内宮と同等以上の存在として格上げすることを目的に作成したという話です。
僕自身も『倭姫命世記』はほぼ、史実に即していないと考えていますが、それは大和姫の巡行ルートがあまりに迂回しすぎていること、また当書通りとするなら大和姫は500歳くらいまで生きたことになってしまうことなどが理由です。
ただ、巡行地として挙げられている聖地、比定地には何かしらの理由があると思われるので、いずれ改めて各地を訪れてみたいと思っています。
さて、奈良の宇陀郡に御杖村という場所があります。
そこに大和姫の巡行の痕跡がいくつか言い伝えられていました。
「四社神社」は大和姫が手を清めたという井戸が残されています。
が、境内は非常にわかりにくいところにあります。
なんとなく場所が分かっても、入口はどこやら。
なんとか境内に入り込むと、川に向かって鳥居が立ち、そこには堤防が築かれています。
かつては川を渡って参拝をしたのでしょうか、まるで五十鈴川を渡って参拝する、伊勢皇大神宮の雛形を見るようです。
度々川が氾濫したので、堤防を築いたといったところでしょう。
御杖村は『倭姫命世記』の巡行ルートからは外れた場所にあります。
しかし大和姫が「太陽の女神を祀るには、東向きの海岸が良い」と言って巡行する上で、まず最初に母ヒバス姫が祭祀する奈良の三輪山を訪れたことは間違い無いと思われます。
三輪山は事代主と、出雲の太陽の女神が祀られた聖地だからです。
アマテラスとは後世、持統天皇の時代に藤原不比等らによって編纂された古事記・日本書紀において創作された日本の最高神です。
その実は古代出雲の「佐毘売山」(さひめやま / 三瓶山)に昇る太陽を神格化した女神であり、やがて奈良の三輪山に遷宮して祀られた「太陽の女神」でした。
『倭姫命世記』では、そこから滋賀や名古屋を巡行したと記しています。
確かに山越えを忌避して平地を進むとそのようなルートになりますが、それではあまりに大きく迂回することになります。
「東向きの海岸」を目指して旅に出たはずなのに、大和姫は見当違いの方向に向かったことになります。
それに対し、御杖村を通るルートは、山越えとはなりますが、奈良と伊勢を最短で繋いだ「伊勢本街道」と呼ばれる道になります。
もちろんこの道が伊勢本街道と呼ばれるのは後世になってからでしょうが、神や天皇の杖代わりとなって奉仕する者を「御杖代」(みつえしろ)と呼ぶことからも、大和姫に縁深いルートなのではないかと思いました。
祭神は「伊邪那美命」「大日靈貴尊」「天津児屋根命」「誉田別尊」。
境内の一角には、「倭姫宮」もあります。
赤く塗られた社殿が、姫の高貴で清楚な佇まいを感じさせます。
そして噂の井戸がこれ。
旅の途中、大和姫が菅野川のほとりにある当社境内の井戸で手を清めました。
この時「ああ、すがすがしい野」と言ったことから、この地が「菅野」と名付けられたと伝えられます。
井戸の横に「酢香手姫神社」が鎮座します。
酢香手姫(すかてひめ)は、飛鳥時代、用明天皇の皇女で用明の代に斎王となりました。
姫がこの井戸で手を洗うと酢のような匂いがしたと云い、自らの名を酢香手と呼んだと言い伝えられています。
こじんまりとした境内には、いくつかの石が祀られているのが目につきますが、
特に注目なのが「菊花石」です。
石に見事な菊の花が浮き出ています。
これとよく似たものが滋賀の「建部大社」にもありました。
建部大社では、この菊紋は天然のもので、菊の化石などではないと説明していました。
それにしてもここ四社神社では触れることもできて貴重です。
あまりに不用心すぎて心配になります。
防犯対策した方が良さそうですが。
四社神社から少し進んだところで、大和姫は御杖村に一泊することにしました。
その場所と伝えられるのが、「御杖神社」です。
神末川沿いに細い道を南下すると、こんもりとした杜がありました。
大和姫はここで、古い杖を新しい杖に替えましたが、村人は杖を置き忘れて出立されたと思い、杖は神様の杖ということで「御杖」「神末」(こうずえ)と呼ぶようになったと云います。
これが「御杖村」「神末」の地名の由来とされています。
天皇の代わりに天照大神に奉仕する斎王を「御杖代」と呼ぶのは、当社がその由来ではないかと思いました。
小さな神社ではありますが、早朝のせいもあって、境内は静謐で神聖です。
まるで鳥居のように、拝殿の前に天に向かって聳える二本の杉の御神木は、樹齢600年と云います。
神紋は八つ丁子(ちょうじ)紋。
丁子の実は平安時代に珍重された香料で、当時はモルッカ諸島などから輸入されていたそうです。
祭神は「久那戸神」(クナトノカミ)「八衢比古神」(ヤチヒコノカミ)「八衢比女神」(ヤチヒメノカミ)と、古い出雲の神を彷彿とさせます。
御杖村付近には、大和姫ゆかりの神跡が多く伝わり、敷津の地には「月見石」が残り、近くの姫石明神では、姫が婦人病の全快を祈願したと伝えられています。
一帯はのどかな棚田に囲まれ、どこか懐かしい景色。
三輪山のある桜井からはるばる足を運びましたが、とても気持ちの良い場所であり、大和姫の足跡を感じる聖地でした。