「その神は神風の伊勢の国の百伝(ももづた)ふ、渡逢(わたらい)の県(あがた)の拆鈴五十鈴(さくすずいすず)の宮におられます。
名は、撞賢木(つきさかき)厳之御魂(いつのみたま)天疎(あまさかる)向津媛命(むかつひめのみこと)と申される。」
三重県伊勢市倭町の一角、金比羅神社参道の脇に「尾上御陵」(おべごりょう)があります。
そこは大和姫が埋葬された御陵であると云われています。
町名の倭町も、この伝承に由来しているそうです。
しかし富家の伝承によると、大和姫の御陵はここではなく、別の思わぬところにありました。
尾上御陵と隣接する倉田山に、別宮「倭姫宮」(やまとひめのみや)があります。
表参道から入ると、本殿までかなり長く歩くことになります。
時間がなければ、駐車場脇の裏参道を進むと、あっという間に本殿にたどり着きます。
しかし倭姫宮はとてもやわらかな、心地よい気に満ちていますので、時間が許す限り表参道を歩くことをお勧めします。
境内は、鬱蒼とはしていますが、決して重苦しいものではありません。
実は14宮ある別宮のうち、創建が明らかなのは倭姫宮のみであると云います。
それもそうで、倭姫宮の創建は大正12年(1923年)11月5日と、びっくりするほど新しいのです。
倉田山の隣に倭姫命の陵墓とする尾上御陵があることから、常明寺門前町は明治元年(1868年)に「倭町」と改称しました。
明治43年(1910年)、明治天皇の神宮行幸に際し道路が整備され、倉田山を経由する自動車道「御幸通り」が造られます。
また明治44年(1911年)には、神苑会によるヴェルサイユ宮殿を模した前庭を持つ「神宮徴古館」が完成しました。
ところで、明治以前には、大和姫を祀る神社は無かったと云います。
明治20年ころより宇治山田町(現在の伊勢市中心部)の住民を中心に、大和姫を祀る神社を創立すべきという声が高まりました。
大正元年(1912年)、当時の宇治山田市長の働きかけにより、大和姫を祀る神社の創立の許可を国会に請願し、大正8年(1919年)帝国議会で創立の予算が可決され、大正12年に倭姫宮が創建されるに至ったのです。
そして昭和3年(1928年)、尾上御陵は正式に倭姫命御陵墓参考地として指定され、現在は宮内庁に管理されています。
昭和20年(1945年)2月15日、宇治山田空襲で付近に焼夷弾による火災が発生、7月29日に宿衛屋が焼失しましたが、幸い本殿は無事であったそうです。
最後に大きな石の階段を上ると、社殿が見えてきます。
天然石の手水舎も丸みを帯びて、女性らしさを感じます。
遷宮を終えた、清らかな社殿がそこに鎮座していました。
聖地としては歴史の浅い倭姫宮ですが、不思議と心地よい、そしてどこか懐かしい優しさで満たされています。
僕は別宮の中でも、倭姫宮が一番居心地が良いと感じました。
遷宮前の社殿も神さびて、とても良い風合いがあります。
敷き詰められた白い砂利は目にも眩しく、清浄な空間を創り出しています。
出雲王家の子孫「富家」の伝承では、伊雑宮から伊勢国に移った大和姫は、五十鈴宮(内官)を建てて、太陽の女神を祀ったと伝えています。
大和姫は物部王イクメと登美家の姫ヒバスの娘ですが、登美家は出雲の向王家(富家)の血筋であるので、「向津姫」(ムカツヒメ)と呼ばれることもあったと云うことです。
向津姫は一般に太陽神アマテラスの別名と考えられていますが、月読みの神を祭祀した豊来入姫が月神と同一に考えられたように、大和姫も太陽の女神と同一であるように、後世で祀られたのかもしれません。
日本書紀の神功皇后の話の中で、仲哀天皇を祟った神の名を、武内宿祢たちが審神者となって問う場面があります。
そこで語られた神の名に、伊勢国の度会県の五十鈴宮にいる「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」がありました。
向津姫の神霊はその後、皇后に三韓征伐と大和東征を成し遂げる手助けをするのですが、向津姫をアマテラスとして祀った神社が福岡の久山と兵庫にありました。
身近なところで祀られていた神が、大和姫の御霊であったことに驚きと、不思議な納得を感じました。