佐賀県神崎郡吉野ヶ里田手、車通りの多い34号線から入り込んだ住宅街に「田手神社」はぽつんとありました。
この小さな神社は天照大神の荒御魂とされる「撞賢木厳之御魂向津媛命」(ツキサカキ イツノミタマ ムカツヒメノミコト)を祀る稀有な神社です。
吉野ヶ里遺跡の中を流れる田手川の土手沿いに社殿は建っています。
向津媛は祓戸の神「瀬織津姫」と同一神とみる人もいるようです。
向津媛とは、太陽の女神を伊勢に移した、日本最初の斎王「大和姫」のことだと、富家の伝承は伝えています。
彼女は出雲王家「向家」(富家)の血を濃く受け継いでいたので、「向津媛」とも呼ばれていました。
田手神社は、「白村江の戦い」に赴いた天智天皇(中大兄)が、死の床に伏した母「斉明天皇」のために向津媛を祀ったのが由来であるようです。
白村江の戦いは、百済を助けるため、新羅に日本がしかけた争いです。
またしても新羅戦に望もうという時に、大切な人が死の床についた、それは天智天皇に仲哀天皇の死が重なって見えたはずです。
ではなぜ、天智天皇はこの場所に、向津媛を祀ったのでしょうか。
僕の知る限り、アマテラスを撞賢木厳之御魂向津媛命の名で祀る神社は、当社の他に、兵庫の「廣田神社」と奈良桜井市にある「撞賢木厳御魂天疎向津姫命神社」だけです。
向津媛の名が記紀に登場するのは、神功皇后の香椎宮での神懸かりのシーンです。
突如皇后に憑依した神は、仲哀天皇に新羅を攻めよと神託を下します。
しかしこれを無視した天皇は神に祟り殺されてしまいます。
この天皇を祟った神の名は「事代主」「住吉大神」と共に、天照大神とされる「向津媛」でした。
祟りを鎮めるため、神功皇后が真っ先に祀ったのが向津媛でした。
その場所は久山の「伊野天照皇大神宮」で、そこは身震いするような神気を感じる聖地です。
しかしここ田手神社は、同じ向津媛を祀る神社ではありますが、どこか懐かしく、安らぎさえ感じる所でした。
本殿の真後ろは小さな公園になっていて、滑り台がひとつ置いてあります。
この素朴な社は、幸せだった頃の姫の記憶に満ちているように感じられました。