伊都王国の痕跡

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「末廬國から東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。
そこの長官を爾支といい、副官は泄謨觚・柄渠觚という。
1000余戸の家がある。
世々に王があるも、みな女王國に統べて属する。
帯方郡の使者が往来して、ここに常にとどまる場所である。」

『三国志魏志、巻三十、東夷伝、倭人』

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【細石神社】
糸島市にある「細石神社」(さざれいしじんじゃ)を訪れました。
ここはかつての、伊都王国の中心地だったと考えられているようです。

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祭神は「磐長姫命」「木之花開耶姫命」の姉妹女神。

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以前は神田も多く、大社だったとされていますが、戦乱や豊臣秀吉の太閤検地により神田が召し上げられ、衰退したと伝えられています。

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附近に伊都国王墓と見られる「三雲南小路遺跡」があり、当社はその甕棺墓の拝殿としての機能を果たす社ではないか、とする説もあるそうです。

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また、以前は高祖神社から当社への御神幸があったと伝えられており、『日本三代実録』元慶元年9月25日に「正六位高礒比賣神に従五位下を授く」とある「高礒比賣神」(タカスヒメノカミ)は、一般的に高祖神社とされていますが、当社のことを指すのではないかと唱える人もいると云います。

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【三雲南小路遺跡】
細石神社の本殿奥の方向100mほど先に「三雲南小路遺跡」があります。

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三雲南小路遺跡は弥生時代中期の方形周溝墓で、甕棺墓 2器を持つ『王墓』であると云われていますが、ほとんど平地にしか見えません。

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1号甕棺墓と2号甕棺墓が隣接するようにあったと云い、1号墓を「王」とすれば、 2号墓は「王妃」に当たるだろうと推定されています。
細石神社の祭神が2柱の姉妹女神であることから考えて、この王が「彦火瓊々杵尊」で、妃が「木之花開耶姫命」だとする論もあるそうですが、イニエ王と阿多津姫は宮崎の都万国で亡くなり、かの地に葬られています。

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【井原鑓溝遺跡】
さらに南に少し下ったところに、「将軍墓」の可能性が高いと云われる「井原鑓溝遺跡」(いわらやりみぞいせき)があります。
が、そこは案内板と田園があるだけで、遺跡の所在ははっきりとしていませんでした。

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【平原遺跡】
「平原遺跡」は三雲南小路遺跡の西側の曽根段丘上に存在する弥生時代後期から終末期の5基の周溝墓群を合わせたものです。

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平原遺跡 1号墓は、「女王墓」ではないかと云われていて、日本最大の直径46.5センチメートルの大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)などが副葬品として出土しており、三種の神器の「八咫鏡」との関連も示唆され、当墓が「卑弥呼の墓」ではないかと唱える学者もいるそうです。

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魏志に記された「卑弥呼」は数名の女性を指していたようですが、いわゆる「親魏倭王の卑弥呼」は宇佐国の「豊玉姫」のことでしたので、ここが彼女の墓でないことは明確です。

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しかし『三国志魏志、巻三十、東夷伝、倭人』、いわゆる『魏志倭人伝』の中で「王」が居たと明記されているのは、「伊都国」と「邪馬台国」と「狗奴国」ですので、当地に力のある王がいたことは事実かと思われます。

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【志登支石墓群】
糸島市北部の田園地帯の中に、ぽつんと遺跡があります。
「志登支石墓群」(しとしせきぼぐん)です。

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支石墓とは、基礎となる数個の支石の上に、大きな天井石を載せる形態の墳墓のことで、「ドルメン」とも呼ばれます。

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世界各地で見られる巨石墓の一種ですが、日本の弥生時代にも見られ、支石墓の中には遺体を納める甕棺(かめかん)が使われていたそうです。

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志登支石墓群は昭和28年(1953)に発掘調査が行われ、弥生早期から中期(約2500から2100年前)にかけての支石墓10基、甕棺墓8基などが発見されています。

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天井石は花崗岩や玄武岩を使用し、大きいものは長さ約200cm、幅約150cm、厚さ約60cmほどだそうです。
死者を甕棺に入れて埋葬する方法は、支那秦国の徐福ら、物部族の渡来とともにもたらされた埋葬方式で、吉野ヶ里遺跡などに多く見受けられます。

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また支石墓は朝鮮半島に多く見られ、それが日本に持ち込まれたと考えられていますが、特に糸島地区に多くその遺跡が発見されています。
旧怡土郡付近は神功皇后の時代、「五十跡手」(いとて)が治めていました。
彼は辰韓(新羅)から渡来した「天日鉾」(アメノヒボコ)の子孫であり、出雲を攻めた時に吉備津彦によって追い討ちを受け、怡土国に逃げた一族の末裔かと思われます。

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【志登神社】
JR波多江駅から500mほど歩いたところに「志登神社」(しとじんじゃ)があります。

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今は田園の中に杜が鎮座しますが、当地は弥生時代には博多湾と唐津湾からの入江が東西から入り込み、伊都国の港を形成していたそうです。
そしてここには、「豊玉姫」が上陸したという伝承が伝えられていました。

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先述した通り、豊玉姫とは、記紀では龍宮の姫として書かれ、その存在が誤魔化されていますが、出雲王家の富家では親魏倭王の卑弥呼として伝えられていました。

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当社はその豊玉姫を「勧請」したのではなく、実際に「上陸した」と伝えていることが、とても重要で貴重です。
そう、正にここは神代の神跡なのです。

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豊玉姫は物部イニエ王と婚姻し、物部・豊連合王国を形成しました。
そして大和東征を図るのですが、その後ろ盾を得るために魏国と国交を結びました。
よって魏国より、「親魏倭王」の称号を姫は得ることになるのです。

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しかし豊玉姫は魏王に対し、あたかも自分が大和の王であるように伝えていました。
そのため九州の端にある自国に、魏から来た使者を入れるわけにもいかず、役人に命じて彼らを、伊都国にある役所までしか行けないようにしたのです。

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つまり魏国の使者に会うために、豊玉姫が海路より当地に上陸したという話は、あながち眉唾でもないということになります。

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隆盛を極めた当社も、元亀・天正の兵乱で廃絶しましたが、藩主「黒田忠之」が社殿を再建したと云います。

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ところが2014年7月15日午後7時20分ごろ、当志登神社で出の手があがり、 本殿と拝殿の計130㎡全焼しました。

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当社の存続も危ぶまれましたが、氏子さんや地元の有志の方々のおかげで、立派な社殿が建っております。

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境内に「神命木」という御神木があります。

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その木の樹勢たるや、素晴らしい。

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境内に生えていた古木ですが、台風で倒れたのだそうです。

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当然、根はむき出しになっていますが、それでもなおこの大木は生き続けました。

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しかもそんな神命木が2本もあります。

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激しい火災でよく燃えなかったものです。
この奇跡的な命も、豊玉姫の御神徳によるものと、思わざるを得ません。

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志登神社のそばに、豊玉姫が腰掛け、髪を梳いたという「岩鏡」なる支石墓があるというので探してみました。

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田んぼの中にポツンと立つ1本の木。
この下にあるっぽいのですが、麦が実っており、近づいて確認することはできませんでした。

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2件のコメント 追加

  1. ブサイク王 より:

    いつも楽しく拝見しています。

    私も鏡を見に伊都国歴史博物館へ行った事があります。あまり時間が無かったので周辺散策はしていませんが、館内でボランティアガイドさんとじっくり観たのですが

    ガイドさんによると平原王墓の被葬者を女性する根拠は耳璫つまりイヤリングが発掘されたことによるそうです。

    ガイドさんも認めてましたが、根拠が薄いそうです。個人的な意見であったと思いますが、高貴な人物であれば男性も身につけていた可能性は否定できないのですよね。

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      こんにちは、ブサイク王さん。
      いつもありがとうございます。

      僕の休日は月曜日がメインなので、美術館・博物館にはなかなか行けず、うらやましいです。
      平原王墓は卑弥呼の墓ではないのでしょうが、それでも当時、大きな勢力を持った国があったことは想像できます。
      糸島の宇美八幡宮にも、大きな支石墓が多数あり、奥宮は大きな古墳となっていました。

      https://omouhana.com/2017/07/16/伊都の層々岐山(雷山)〜神功皇后紀%E3%80%8018/

      ただ、これほど多くの遺跡や聖地があるにも関わらず、あまり人に知られていないのは、少し残念な気もします。
      人に知られすぎて荒らされるのも嫌ですけどね。

      貴重な情報ありがとうございました。
      ぜひ月曜日以外の休みに、博物館へも足を運んでみます。

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