奈良桜井市にある三輪山の南方に、鳥見山があります。
その麓には「等彌神社」(とみじんじゃ)がありますが、それとは別に「宗像神社」が北麓に鎮座します。
とてもこじんまりとした境内。
社伝によると、「南北朝時代、社人高階義岑が弟玉井入道西阿とともに南朝に味方し、興国2年(1341年)、敵将渡辺源四郎と鵄村にて合戦した際、鳥見山中腹にあった宗像神社は兵火で焼失。山麓に小祠を構えてわずかに奉祀するだけとなった」とあります。
つまり、当社はもともと、鳥見山中腹にあったと云うことです。
江戸時代の国学者「伴信友」(ばんのぶとも)は、胸形徳善の女である尼子娘が、天武天皇の後宮に入って高市皇子の母となった縁によって、同皇子の外戚の氏神として祀られたものであろうと推測しています。
しかし富家でも、その創始について語られていました。
東出雲王国8代目少名彦「事代主・八重波津身」の息子「クシヒカタ」は奈良の葛城に移住しますが、後に居住区を磯城地区に移します。
そして三輪山に出雲の太陽の女神と父「事代主」を祀りました。
磯城に移ったクシヒカタは「登美家」(トビケ)と呼ばれるようになります。
やがて登美家の子孫は、神聖なる三輪山を遥拝するため、鳥見山山頂に祭りの場「鳥見山霊時」を築きました。
これにより、三輪山の祀りに多くの豪族たちが集まるようになりますが、その中に北九州を統べる「宗形家」もいたと云うことです。
宗形家は西出雲王家6代大名持の「臣津野」 (オミツヌ)の息子、「アタカタス」が興した一族でした。
つまり出雲族と宗形族は親族に当るのです。
そして鳥見山中腹に、社殿を設けたのでした。
当社を訪れると、3つの本殿が並んでいました。
当然それぞれに三姉妹が祀られているものと思いきや、三姉妹はすべて中央の社殿で祀られていました。
左右のやや小さめの社殿は春日社と若宮社であるということで、当社の変遷に関わりがある社となっています。
宗像神といえば、あまりに三姉妹神の印象が強くなった現代ですが、本来の神は大祖神たる「アタカタス」だったのではないかと思います。