河内大塚古墳・島ノ山古墳・比売久波神社:八雲ニ散ル花 61

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大阪府羽曳野市・松原市にある「河内大塚古墳」は、埋葬者が誰なのか分かっていないという事ですが、明治時代に古墳の上にあった数十軒の民家を移し、宮内庁が「陵墓参考地」としました。
つまり当墓は、皇族の墓らしいと認められたのです。

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この大きな前方後円墳は、斎木雲州氏の記す「富家」の伝承によると、「武内襲津彦」の墓であると云うことです。

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1世紀後半に朝鮮半島から渡来した辰韓の王子ヒボコの子孫に「オキナガタラシ姫」(息長帯姫)がいました。
オキナガタラシ姫は後に「神功皇后」と呼ばれます。
姫は物部・大和王朝イクメ大王の孫「ワカタラシ大王」の后になりましたが、そのとき朝鮮半島では辰韓が滅び「新羅」が興りました。
姫は新羅国に対し、自分は辰韓の直系の子孫なので、辰韓の財産の分与を求めました。
それが神功皇后の「三韓征伐」です。

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記紀は物部王朝が三代で終わった事を隠すため、戦死したワカタラシ王の存在を隠し、姫の部下であった「豊前中津彦」を大王に格上げして「仲哀」と記しました。
しかしその中津彦も、早くに戦死してしまいます。
そこで姫の志に深い理解をもち、パートナーとなったのが「武内襲津彦」です。

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襲津彦は記紀では「武内宿禰」と記されていますが、この「武内宿禰」は「卑弥呼・豊玉姫」の時代に生きた「武内大田根」から襲津彦までの代の人物を、一人の人物として見せかけています。
なので武内宿禰という人は6代の天皇に仕え、300年以上生きた怪人として記紀に描かれているのです。

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三韓征伐の総大将となった襲津彦は、オキナガタラシ姫とともに朝鮮半島に向いました。
海を埋め尽くしたおびただしい軍船を見た新羅王は、戦わずして降伏したと云います。
その後百済も降伏させ三韓征伐に大成功を収めた襲津彦は、帰国後、大和の葛城に移り、葛城の王となりました。

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オキナガタラシ姫は仲哀天皇の子を宿したまま三韓征伐に赴き、帰国後筑紫の宇美八幡宮で「応神天皇」を出産したと記紀に記されています。
しかし富家の話では、この子は襲津彦との間に儲けられた子であると云います。
ただ、オキナガタラシ姫と襲津彦の間に生まれた皇子は早世したので、辰韓の遺産を受け取れなくなることを恐れた皇后らは、当時親交のあった上毛野国(群馬県)国造家の皇子「竹葉瀬ノ君」を秘密裏に、息長家の養子としたのだそうです。
彼は豊王国女王「豊玉姫」の長男「豊来入彦」(豊彦)の子孫でした。
オキナガタラシ姫は息長家で育てた竹葉瀬ノ君を「応神大王」として即位させたのです。

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この事件を記紀の製作者は、敦賀の氣比神宮で、伊奢沙和気大神と誉田別皇子の名前の交換という逸話で、密かに仄めかしていました。

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奈良県磯城郡川西町にある「島ノ山古墳」は襲津彦の后「髪長姫」の墓であるといいます。

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襲津彦王は大和に凱旋し、初めは摂津国住吉郡桑津村に住み、そこに住吉神社を建立しました。
その後、奈良の葛城に移住し領地を広げました。

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古墳の横には、髪長姫をまつる「比売久波神社」(ひめくわじんじゃ)が建てられました。
姫は住吉の桑津から来たので、それが神社の名前になり、御神体は「桑の葉」となっているそうです。

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髪長媛は後の「巨勢臣小柄」、「紀伊臣角」、そして「蘇我臣石川」らを儲けました。
彼らはそれぞれ、大和において強大な勢力となっていきます。

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しかし応神の後に大和の王権を手にしたのは、襲津彦の弟「武内若子」の子孫「平群臣都久」でした。
武内若子の娘「岩野姫」はオオサザキ大王(仁徳)の皇后となり、イザホワケ大王を儲けます。
以後「オオサザキ」、「ミツハワケ」(反正)、「アサヅマ」(允恭)、「アナホ」(安康)、「ワカタケ」(雄略)らが「倭の五王」と呼ばれ、長期にわたって平群・大和王朝が続くことになります。

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武内宿禰の子供と仁徳天皇は同じ日に生まれたので名前を交換したという一文が、記紀に記されています。
これもまた王権の血筋が変えられたことを暗喩していました。
記紀において名前交換というキーワードは、王権交代を意味するのです。

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三韓征伐の最大の功労者は、何と言っても襲津彦でした。
でも実際はその弟の子孫が王権を継いだことに、襲津彦の子孫らは不満を持ったと云います。

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大雀(平群)王朝も末期の頃には、大雀家親族同士の対立抗争が絶えず、近畿の臣民に不評となり、王家に年貢を納める人々が減っていきました。
そうした頃、北陸で玉類を生産し、勢力を強めていた蘇我家に、ある男が婿入りします。

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その男は旧東出雲王家「富家」の次男の「彦太殿」でした。
彼は後に「オホド王」と呼ばれ、諡を「継体」と呼ばれた、その人でした。

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