奈良県御所市古瀬高社、巨勢山の南東面中腹、7合目あたりに巨勢山口神社(こせやまぐちじんじゃ)は鎮座しています。
御所市を車を走らせていた時に、偶然案内板を見つけ、ふらりと立ち寄りました。
軽い気持ちで立ち寄ったのですが、これが思わぬ登山となってしまいました。
各地に見られる「山口神社」は、「山々の口から落ちる水を甘き水と受けて、天下の公民が作る作物を悪風・荒水から避けて、よく実るよう祈り祀られた」神社とされます。
しかし当地は、飛鳥・藤原と紀伊を結ぶ古道巨勢路が通じ、古代の豪族巨勢氏の本貫地でもあり、その社名と氏の関係が指摘されるところです。
三韓征伐の功労者「武内襲津彦」と「髪長媛」との間に生まれた御子の子孫の一つが巨勢氏です。
同じく襲津彦の子孫に蘇我氏がいます。
襲津彦の子「巨勢臣小柄」は、父が最後に移住した葛城の側に拠点を持ち、勢力を広げたことと思われます。
深い山道を20分ほど登ると、厳かな空気に包まれた社殿が見えて来ました。
標高297mの巨勢山中腹に鎮座する当社に、訪れる人も少ないようですが、社域は綺麗に掃き清められていました。
祭神は「伊邪那岐命」「伊邪那美命」となっていますが、もとは「大山祇命」だったと思われます。
本殿はかなり侘びた風情ですが、朱の色が残り、創建当初は雅な社殿だったことを窺わせます。
襲津彦の子孫は、莫大な彼の遺産を受け継ぎ、栄華を極めたものと思われます。
しかし歴史上、その存在は謎とされるほどに、覆い隠されて来ました。
そこには例によって、中大兄皇子と中臣鎌足らが画策したクーデター「乙巳の変」を正当化させるため、徹底して歴史の偽装工作を行った不比等の功が奏したことを表しているのではないでしょうか。
巨勢山で朽ちかけた古社は、今も口を閉ざしたままでした。