山辺神社:八雲ニ散ル花 66

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出雲大社の西南、住宅街の細い路地の先にひっそりと「山辺神社」があります。

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山辺赤人と名乗る人物が、太屋敷で向家当主と会い、上総に去る旨を伝えた直後、『続日本紀』に、太安万侶の死亡記事が書かれました。
向家は、古事記に出雲王国の痕跡を残した山辺赤人を恩人と考え、大社町に山辺(赤人)神社を建てました。
やがて太安万侶の墓ができた頃、大社町に山辺赤人の供養塔が建てられたと云います。

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富家に伝わる日本の歴史の正当なる伝承者「富當雄」(とみまさお)氏の息子と称する「斎木雲州」氏は、太安万侶のことと、歌人・山部赤人のことを別々に伝承されたそうです。
ちなみに赤人の実家では、「部」の字は「辺」の字を使っています。
しかし氏は、太安万侶が、山辺家の養子になり、赤人と名を変えた、と考えねば話が合わないと説いています。

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生前、太安万侶が山辺家の養子になったとされる家系図もあるそうで、その可能性は大きいようです。
その前提で、氏はもっとも可能性の大きい仮説を、述べています。

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古事記・日本書紀は、右大臣「藤原不比等」の独断専行で制作が開始されました。
なのでそれは秘密裏に行われなくてはならなかったのです。
記紀の制作が終わった後も、制作に携わった者など、明らかにするわけにはいきませんでした。
柿本人麿は、生没年も不詳ならば、享年も不詳だそうで、「その後」も、明らかとなっていません。
ただ、制作後、彼は石見国と上総国に配流されたという話が残っているようです。

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そして日本書紀が書き終わったとき、太安万侶は、罪を着せられ、出雲国府に左遷されたのではないかと氏は言います。
一定の期間、出雲の太屋敷で幽閉され、やがて記紀の製作の秘密を守ることと、役職を辞すること、山辺の姓を使うことを条件として、後にようやく自由の身となったと云うのです。
千葉に住む、山辺赤人の子孫には、彼は都落ちの人と言われ、高官(右大臣か?)により東国に追放されたことを、長年恨んでいた、という文書が残っていると伝えられています。

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国は、太安万侶が苦労して書いた日本書紀を、太安万侶作として発表しませんでした。
その腹いせに、太安万侶作と書いた序文を付けた古事記を、太家の子孫を通じて世間に送り出したらしいという噂があります。
その古事記は、人麿が作った写本を安万侶が隠し持っていたのが、使われたと考えられます。
今日古事記の編纂者に太安万侶の名が残っているのは、彼なりの時の政府に対し報いる精一杯の一矢だったのかもしれません。

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