意宇の杜:八雲ニ散ル花 66

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717年の頃、出雲国府の東北にあった太屋敷から、向家(富家)に使いのものがやって来た。
彼は向家の当主に、秘密の伝言があるという。
内容は、太安万侶という者が会いたがっているという知らせだった。

「私は長いこと、幽閉されていたのです。」

夜になって、向家当主が太屋敷を訪ねてみると、一人の男が出迎えた。
太安万侶本人と思われたが、なぜか彼は山辺赤人と名乗った。

「私と柿本人麿は、右大臣様の屋敷に幽閉され、ある書物を書かされていました。
それはこの国の一大事業として行われた、歴史を記した書の作成でしたが、正しい歴史を記すことは許されませんでした。」

それを聞いた当主は、顔を曇らせた。

「それをわざわざ私に知らせてくれるということは、その書は出雲にとって良くない内容なのだな。」
「はい、初めは初代出雲王の時代から記すことを、右大臣様も認めておられました。
ところがある時突然、出雲の歴史は一切書くことを禁じられたのです。
私はなんとか右大臣様に掛け合い、王国の歴史を神の物語として記すことで了承を得ました。
しかし、その神話の内容でさえ細かに指示され、真の出雲王国の姿を書に残すことはできませんでした。
せめてもの功績といえば、17代にわたる出雲王の名を記すことだけはできたということです。」

赤人と名乗った男は、やつれた容貌だったが、力強く当主の目を見つめた。

「誰かが、王国の存在を歴史から消してしまおうと画策しています。
偽りの歴史書だけが残ってしまえば、長い年月の中で、王国の存在は本当に消えてしまいます。
そうなってはならない。
我々、日本の民は偉大な先祖を神と敬って来た、その心を、一時の権力者の都合で失ってはならないのです。
日本の歴史を知る向家の御方と見込んでお願いします。
どうか正しい日本の歴史を守り伝えてください。」

赤人は涙ながらに訴えた。

「どうか顔を御上げ下さい。
まずは出雲王の名を残していただけたこと、出雲の民を代表してお礼申し上げたい。
ありがとう、赤人殿。
そして誓いましょう、必ずや公正で正しい日本の歴史を語り継いでまいります。
数千年の先まで、私の子孫にその責務を守り続けさせましょう。」

お忍びであったため、あまり長くも居られなかった。
当主は立ち去り際、ふと赤人に尋ねた。

「あなたは、これからどうなさるのですか。」
「私はようやく、ここから解放されることになりました。
この先は上総の国へ参るつもりです。」

達者で、と告げて当主は屋敷に戻った。
事の重大さは理解していた。
ともすれば、この国は、永遠に歴史を失うことになる。
念入りに、慎重に、決して齟齬なく公平な真の歴史を、確実に未来の子孫へ伝え届けなければならない。
その方法を模索しながら、床についた。

それからしばらくして「続日本紀」が世に出された。
そこには、太安万侶の死亡記事が書かれていた。

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日本の正史とされる古事記と日本書紀。
古事記は、聞けば全てを暗記するという「稗田阿礼」(ひえだのあれ)が天武天皇に命じられ『帝皇日継』(ていおうのひつぎ / 帝紀)と『先代旧辞』(せんだいのくじ / 旧辞)を誦習したものを、「太安万侶」(おおのやすまろ)が編纂したとされています。
また、日本書紀はその成立の経緯の記載が一切なく、後に成立した『続日本紀』の記述に舎人親王らの撰によって完成したと記されています。

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出雲国庁跡の脇、松江市竹矢町の田園の中に、太安万侶が晩年に住んだと伝わる屋敷跡が「意宇の杜」(おうのもり)として残っています。

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716年に出雲大社が完成したので、向家(富家)は熊野大社から大社町に移転して筆頭上官になりました。
それ以前に出雲国司「忌部子人」の指図により、国庁の近くに、太家屋敷と呼ばれる建物ができていたと云います。
その屋敷は、周りが生け垣で囲まれていて、太安万侶が生活を送ったというより、監禁されたと呼ぶ方が相応しい場所でした。

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717年頃に、秘密の使いが大社町の向家を訪れ、太安万侶がこっそり会いたいと願っている旨を伝え、使いと一緒に太屋敷の近くに行き話を聞いた、と向家では伝承されているそうです。
そのとき不思議にも、太安万侶と思われる人物は、自分の名を「山辺赤人」と名乗ったと云います。

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彼は自分と「柿本人麿」が、国の正史を記す書として古事記と日本書紀を書いた、と告白しました。
しかしその内容は、正史と呼ぶにはあまりに真実とかけ離れた内容であったと告げられます。

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古事記・日本書紀制作の責任者は、時の右大臣「藤原不比等」でしたが、制作の途中から、出雲の歴史は記さないよう指示されたそうです。
それを安万侶は、出雲王朝の歴史を残すことを主張し、なんとか出雲神話に変えて記すことができたと云います。
出雲神話の中に、実在の出雲国王の名が書かれているのは不釣り合いでしたが、彼はどうしても書きたかったといい、古事記に17代にわたる出雲王名が書かれるに至ったと云うことです。

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やがて古事記は、柿本人麿が書くことになり、安万侶は日本書紀の制作に移されました。
記紀は右大臣の独断で編集方針が決まり、製作が始まったので、秘密にする必要がありました。
二人は監禁状態の中で、書の作成に携わされました。
それが終わった後も口外無用とされ、太安万侶は出雲に屋敷を用意され、そこで監禁生活を強いられたと云うことです。

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向家の当主は、太屋敷を去る際、出雲人を代表してお礼の言葉を述べたと云います。
また赤人はそのうちに、上総国に行く予定だ、とも言ったと伝えられました。
その屋敷跡は、村人が幸の神の神域として、今も守り続けています。

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