辰子は美しい娘だった。
安倍三之丞の娘は、稀に見る美貌を持つと云われた。
年頃になった辰子は、その美貌に自ら気付いてしまった。
いつの日か衰えていくであろうその若さと美しさを何とか保ちたい、辰子は日々、そう願うようになった。
辰子は村の背後にある院内岳の大蔵観音に、百夜の願掛けをした。
夜の山は男も恐ろしがって近づかないが、辰子は必死に通い、願った。
ついに満願の夜、観音が辰子に応えた。
「北の山を越えたところに清い霊泉がある。それを飲めば願いが成就するだろう。」と。
辰子はその泉へ向かった。
そしてお告げの通り、泉の水を辰子は飲んだ。
すると、絶えがたい喉の乾きが辰子を襲う。
再び泉の水を飲む。
水を飲む。
しかし、いくら水を飲んでも渇きは激しくなるばかりであった。
水を飲み続ける、辰子の身体は、見る見るうちに大きな龍へと変わっていった。
天地は鳴動し、山は崩れ谷を埋め、水が溜まり、そこに大きな湖ができていた。
辰子は悟った。
自分の願いは、人の域を超えたものであったと。
辰子は、その湖に身を沈め、そこの主として暮らすようになった。
秋田の名所、「田沢湖」を訪れました。
田沢湖周辺にある、4つの辰子像のひとつ、「辰子観音」がありました。
こちらの辰子像、とてもふくよかです。
5月も半ばですが、八重桜はまだ咲いていました。
この日の天気は曇り。
どんよりとした雲がかかっています。
しかしそれでも田沢湖の水は、美しく澄んでいます。
「蓬莱の松」と呼ばれる松がありました。
まるで龍と化した辰子のようです。
その先に2体目の辰子像があります。
辰子の母は、山に入ったまま帰らない辰子の身を案じ、やがて湖の畔で辰子と対面します。
辰子は変わらぬ姿で母を迎えましたが、既に人ではなくなった辰子を想って母は悲しみ、かざしていた松明りの燃えさしを湖面に投げ入れました。
するとその燃えさしに尾びれがつき、魚の姿となったと云います。
これが田沢湖のクニマスの始まりでした。
田沢湖では、古くから漁業が行われ、国鱒も久保田藩主の佐竹氏および分家の佐竹北家(角館佐竹家)の献上品として利用されてきました。
しかし戦時体制下の1940年(昭和15年)、食糧増産と電源開発計画のため、湖水を発電用水・農業用水として利用するため、近くを流れる玉川からpH1.1という国内屈指の強酸性の源泉を湖に導入する水路が作られました。
その結果、クニマスを始め、多くの水棲生物が絶滅し、死の湖となってしまいました。
その後、中和施設を設置し、これによって湖面の水質は中性化していきましたが、今なお湖全体の水質回復には至っていないといいます。
ここに滅びゆく魚類と、湖神辰子姫の霊を慰めるために建立したのが、この像です。
田沢湖の畔の北端にある「御座石神社」(ござのいしじんじゃ)、ここは辰子姫を祀る神社です。
参道の「御座の石の杉」が存在感を放っています。
朱色の鮮やかな社殿が、緑の背景に映えます。
当社の御利益は、美の守護神、美貌成就、不老長寿です。
世にも稀な美しさで生まれ、その美貌を永遠のものとしようとした姫。
その思いが「美貌成就」の御利益につながっているのでしょう。
美女はさらに美しく、醜女はまあそこそこに、いや、美人になるらしいとのことです。
本殿はほとんど見えませんが、小さな社殿が鎮座するようです。
境内にはたくさんの絵馬がかけられ、
龍神となった、3つ目の辰子像がありました。
参道を下に降りると、湖面に向かって鳥居が建っています。
田沢湖に沈む辰子姫は、ここから昇ってくるのでしょう。
鳥居のある一帯は、平たい岩盤になっています。
1650年(慶安3年)、時の秋田藩主「佐竹義隆」公が田沢湖を訪れた際、湖畔にあった石に腰かけて休んだと云われる石です。
田沢湖は日本で一番深い湖となっており、その最大水深は423.4mもあるといいます。
まさに龍神が棲まうに相応しい湖で、岩のヘリまで足を進めると、そのまま引き摺り込まれてしまいそうな錯覚を覚えます。
田沢湖はその深さゆえ、東北の真冬でも凍ることはないのだそうです。
御座石の脇に、1本の木から7種類の木が生えたという「七種木」(なないろぎ)があります。
雨乞石を守るために、この不思議な木が自然に生えたのだそうです。
その木の根元に立てかけられるようにあるのが、「雨乞石」です。
この舟型の石を動かせば、湖は荒れ、雷雨になると言い伝えられます。
湖神が宿り、豊作を祈るものに祈願されてきたと云います。
さて、境内から少し離れたところに、「鏡石」なる標識がありました。
200mとあるので行ってみます。
200m、とありましたが、嫌な予感がします。
途中、願い橋なるものがありました。
なかなかスリル感のある木の橋です。
なるほど、願い事があちこちに書き綴られています。
あと100mとありましたが、どこまでも山道です。
こ、こんな山道とは、聞いていませんでした。
息も絶え絶えになってくると、何か見えてきました。
鏡石、辰子が龍になる前に、この鏡のように磨かれた石に向かって髪を結い、ねんごろに化粧をしたとあります。
鏡石はその展望台の先にありました。
鏡のように磨かれてはいませんが、不思議なオーラを感じました。
ここまで15分ほど登ってきましたが、ずいぶん高い場所まで来たようです。
帰り際、再び願い橋に来ました。
行きは気付かなかったのですが、「かなえる岩」というものがありました。
膨らんだカエルのような大岩に、皆の幸せを願って下山します。
下山してくると、小さな社に気が付きました。
「潟頭の霊泉」とあります。
赤い橋の下にある池、
この水を飲んで、辰子は龍神になったのでした。
さて、いよいよ第4にして最も有名な、黄金の辰子像の元に来ました。
そこに「漢槎宮」(かんさぐう)、又の名を「浮木神社」(うききじんじゃ)という社があります。
流れついた浮木(大木が湖面から2メートルぐらい顔を出し、斜めに水底に深く消えている流木)を祀っているそうです。
ここも恋愛成就の御利益ありと云われています。
そして、ありました。
ただただ静かに佇む、金色の乙女。
舟越保武作の「たつこ像」です。
存在は知っていましたが、こんなに美しい像だとは知りませんでした。
清純であり、官能的でさえあります。
辰子の伝説には、続きがあります。
秋田の北方の海沿いに、「八郎潟」という湖があります。
ここにも、人間から龍へと姿を変えられた八郎太郎という龍が、終の棲家と定め棲んでいました。
この八郎太郎は、元は鹿角郡の草木村のマタギでした。
ある日、あまりの美味しさに、仲間の分のイワナまで自分一人で食べてしまったところ、急に喉が渇き始め、33夜も川の水を飲み続け、いつしか33尺の竜へと変化してしまいました。
自分の身に起きた報いを知った八郎太郎は、十和田山頂に湖を作り、そこの主として棲むようになりました。
この湖が十和田湖となったのです。
ある時、南祖坊という僧が諸国で修行をした後、熊野で「草鞋が切れた場所が終の棲家になる」との神託と、鉄の草鞋を授かりました。
その南祖坊が旅の末、草鞋が切れたのが十和田湖だったのです。
南祖坊は十和田湖を終の棲家にしようとしましたが、そこにはすでに八郎太郎が棲んでいました。
当然です、十和田湖は彼が造った湖でした。
南祖坊は十和田湖をよこせと、八郎太郎と7日7晩戦いました。
結果、南祖坊は勝者となって十和田神社に祀られるこになります。
負けた八郎太郎は、米代川を通って逃げ、様々な試練の末、たどり着いた湖、八郎潟をようやく安棲の地とします。
八郎太郎は、同じ境遇の辰子のことを知り、いつしか彼女にに惹かれるようになりました。
田沢湖へ毎冬通うようになった八郎太郎のその想いを、辰子も受け容れました。
しかしある冬、辰子の元に、再びあの南祖坊が立っていたのです。
辰子までも失うわけにはいかない、八郎太郎は必死の思いで南祖坊に立ち向かっていきました。
奮戦の結果、今度は八郎太郎が見事、勝ちを収めたのです。
それ以来、八郎太郎は冬になる度、辰子と共に田沢湖に暮らすようになり、主が半年の間いなくなる八郎潟は年を追うごとに浅くなり、主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなくますます深くなったのだと云うことです。