四天王寺:八雲ニ散ル花 79

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ついに守屋を追い詰めるところまできたが、その戦は、泥沼の戦いとなっていた。
上宮太子16歳の夏であった。

「朕は三宝に帰依する」
上宮太子の父、「用明大王」は仏教採用を宣言した最初の大王だった。
大王は、仏教を推し進める計画を舎人たちに立てさせたが、その裏で排仏派の物部守屋・中臣勝海らは苦々しく思っていた。

ある夜、守屋は資人の「捕鳥部万」(ととりべのよろず)に命じて指揮をとらせ、物部勢と中臣勢を率いて、大王の住まう池辺宮を取り囲んだ。
「火を放て」
宮は勢いよく燃え盛り、中から舎人らが逃げ出してきた。
しかしその姿の中に、用明大王の姿はなかった。

父を亡ぼした実行犯、物部守屋はその後も免罪された。
気性の激しい上宮太子は、石川麻古に復讐を訴え軍備を整えさせた。

物部守屋は河内国の別荘に隠れていた。
それを知った上宮太子は、採仏派の竹田皇子や巨勢臣比良夫、膳臣賀陀夫らの兵を集め、進軍した。
石川麻古は崇仏派の阿倍臣や平群臣神手、坂本臣糠手らの兵を集め太子に合流した。

守屋の屋敷を取り囲む太子の軍は、錚々たる人数であった。
それに対し、守屋の軍は子弟と奴軍からなる私兵だけであったが、軍事氏族の彼らは戦が巧みだった。
「榎木林に弓兵をひそませ、奴らに矢を雨のように降らせてやれ」
守屋自身も榎の大木に登って、弓を引いた。

攻める軍勢は一進一退であった。
そのとき軍勢の後ろから上宮太子は、白膠木の木で作った、四体の人形を頭の総角に巻いて現れた。
「今この戦いで我勝たば、必ずや四天王を奉らん。我を勝たし給え」
「我も仏王と諸天王のために、寺を建てて三宝を広めよう」
石川臣麻古も続いて宣言した。

それを見た崇仏派軍は勢いを増して進んだ。
ときに迹見赤檮(とみのいちい)が榎木林に走り、大連を下から射落とした。
また、大連の息子も同時に射殺された、と云う。

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大阪市天王寺区にある「四天王寺」は、物部守屋らを討ち取った上宮太子が、その戦勝の礼に四天王を祀った寺とあります。
しかし寺でありながら、立派な鳥居が西向きに鎮座しています。
これは、推古女帝による「寺から夕日を拝めるように、鳥居を建てよ。寺は西向きに造れ」という要望を取り入れたと云うことです。
推古女帝の出身、額田部家の信仰に「夕日を拝む」というものがありました。

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また四天王寺には立派な南門があります。
「四天王寺の正門が西向き」という話を聞いた太子は、四天王寺の伽藍を南向きに並べるよう要求しました。
こうして四天王寺は、神社の様式を兼ね備えた「神仏習合」の寺院となりました。
崇仏派と排仏派に別れて、壮絶に争った宗教対立をやめ、複数宗教の長所を取り入れることを始めたのです。

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参道入り口のところに「引導石」と彫られた囲いがありました。

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「諸人葬送の時に棺を引導石の前に置き、無常院(北引導鐘堂)の鐘を三度鳴らすと、お太子様がこの石に影向ありて亡魂を極楽浄土の世界にお導きくださる」と書かれています。

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額田部太后は、兄の豊日大兄皇子を大王に指名し、用明大王としましたが、彼の権力が強くなるのを望みませんでした。
なぜなら太后は、まだ幼い、自分の息子「竹田皇子」を次の大王にしたかったのです。
また夕日を祀る太陽神信仰のあった太后は、仏教にも良い印象を持っていませんでした。
そこで太后は物部守屋と中臣勝海に、大王を失脚させるようそそのかしました。

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587年4月、物部大連守屋は私兵を集めました。
そこには物部勢と中臣勢の他に、穴穂部皇子と宅部皇子も参加したと云います。
中臣勝海は兵を送りましたが、自分は恐くなり家に隠れていました。
物部守屋も自宅にいましたが、物部家の家子郎党を資人「捕鳥部万」に指揮を執らせて、物部勢と中臣勢を率いて、用明大王の「池辺宮」を取り囲みました。
そして兵は突撃し、屋敷に火を放ったのです。

この事件を日本書紀では、前年の所に書いて誤魔化しています。
そして用明大王は587年に病没したように見せ掛けているのです。
この事件の真相は、上宮太子の子「額田部財王」により、出雲の富家に知らされたと云うことです。

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用明大王を亡ぼした実行犯・物部守屋が、処刑を免れたことに不満を抱いた上宮太子は石川麻古に復讐を訴えました。
しかし額田部太后の排仏意図を感じ取った麻古は、上宮太子の復讐心をしばらく抑えるよう説得しました。
上宮太子は気性が激しく、16才であったが考えを変えなかったと云います。
太子は自分の舎人や崇仏派を集めて、物部守屋を襲う計画を立てました。
その姿を見た石川臣麻古は、自分も加わって物部排仏派を討つことにしたのです。

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いよいよ決戦となった時、多勢の太子軍に対し、手練れの物部軍は戦術で対抗し、一進一退の状況でありました。
そのとき軍の後ろにいた上宮太子は、白膠木(ぬるで)の木で作った四天王の人形を、頭の総角に巻いて現れました。
「今この戦いで我勝たば、四天王を祀る寺を建てることを誓う。我を勝たしめ給え」
その願いあってか、太子は守屋に勝利しました。
書紀には守屋と息子たちは殺されたと書かれていますが、彼らは東国に逃れた、とも云われています。

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若い上宮太子は、石川麻古の元にやってきて、四天王を祀る寺を飛鳥に建てて欲しいと頼みました。
しかし石川麻古は法興寺の建設に金がかかり、余裕がなかったのでこれを断りました。
太子は次に、太后に寺を建てたいと申し出ました。
太后は大和に寺をさらに建てることに反対し、摂津国の物部の別荘跡地を与える、と告げました。
太子らの軍が、物部守屋を討ち取ったとされる場所です。
額田部太后は、聡明な自分の甥を少なからず愛していました。
それで自分の皇女「菟道貝蛸姫」(うじのかいたこひめ)を、上宮太子に嫁がせていました。
二人の間には、「日奉王」と「財王」が生まれています。

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当初の四天王寺は現在地ではなく、「鵲森宮」の社伝では、隣接する森之宮公園の位置に「元四天王寺」があったと伝えています。

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大后は上宮太子に「貝蛸姫に多くの領地を与えたから、その領地の貢ぎを使って社を建てなさい」と告げました。
しかし太子はそこに社を建てずに、河内の玉造森村に、石川臣麻古に頼んで四天王寺を建てさせたと云うことです。
その場所は、今は「元四天王寺」の地名が残っています。
太子は、皇后との妥協のために、特別に西大門と鳥居を付けました。
「西大門があるのは、釈迦の昇天された浄土の方向を尊重するため」
との仏教的解釈が、太子により与えられたと云います。

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後世にできた奥殿は八角形の形をしていますが、これは額田部皇后好みの「幸ノ神」の形として示したものと云うことです。

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幸ノ神は、「道の神」とも呼ばれ、岐には「八岐姫神」(ヤチマタノヒメカミ・幸姫)が宿ると考えられていました。
「八」は、出雲系幸ノ神信仰で聖なる数とされ、八角の建物は神仏にふさわしいと考えました。

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この頃からしばらくは、上宮太子にとって栄光の日々が続きます。
しかしやがて、彼も額田部皇后の思惑に翻弄されていくのです。

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そして彼の命を最終的に奪ったのは、思わぬ人物だったと伝えられていました。

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