「橘寺」(たちばなでら)という寺が、奈良の明日香村にあります。
寺伝によると、かの「聖徳太子」が生まれた所と伝わります。
のどかな田園の中にある橘寺の名は、「垂仁天皇」の命により不老不死の果物を取りに行った「田道間守」が持ち帰った橘の実を植えたことに由来すると伝えられています。
敏達大王の没後、太后になった額田部皇女は、兄の「豊日大兄王」を大王に任命しました。
豊日大兄は橘宮に住んでいましたが、そこから飛鳥川を越えた東部に池辺大宮を造り、移り住みました。
用明大王の妃「穴穂部間人」皇女は、皇后になりました。
皇后が生んだ二人の息子は、大王と皇后が池辺大宮に移り住んだ後も、橘宮にそのまま住み続けました。
新宮殿から見ると、橘宮は高地に位置したので、そこは「上之宮」とも呼ばれ、それで長男は「上宮皇子」と呼ばれるようになりました。
この上宮皇子が、書記に「厩戸皇子」、また「聖徳太子」と呼ばれたモデルとなった人でした。
用明大王は上宮皇子を、大兄に指名しました。
大兄とは、大王家の家督相続者を意味する言葉です。
上宮皇子とともに、橘宮に住んだのが弟の「久米皇子」です。
法空著『上宮太子拾遺紀』には、
「明一伝は云う。父天皇ひどく太子を愛し、島ノ大宮の南上大殿に住まわせた。ゆえに上宮皇子と称した。今のいわゆる橘尼寺が、その宮所である」
と記されています。
上宮皇子が「厩戸」で生まれたというのは、後の創作でしょうが、聡明な皇子だったということは伝わります。
しかし彼が超能力を持っていたとか、特殊な才能を持っていたというわけではありませんでした。
上宮皇子には、孤独で短い人生が、待ち受けていたのです。
この橘寺に鎮座する石造物に「二面石」があります。
境内にある高さ約1mほどの石造物で、左右に善相と悪相が彫られていると一般に考えられています。
これは斉明女帝が造り置かせた「撲父夫妻神」の石像であると云います。
女帝は上宮皇子の息子、「山背大兄」の斑鳩宮を焼いた罪滅ぼしに、太子の神霊を祀り、太子殿の横に後世に撲父夫妻神石を祀ったと云うことのようです。