奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳、「石舞台古墳」。
それは「蘇我馬子」の墓といわれる古墳です。
30数個の巨石から作られていて、全長は約19m、横幅3.4m、高さ4.8mあります。
玄室の高さは7.7メートル、国内最大級の横穴式石室と伝わります。
国内最大級の石室を持つ当墳は、富家の話によると、上宮太子の父君「用明大王」が生前に築いた桃原陵であると伝えています。
石舞台古墳は元々、普通の古墳と同じように土が石の上にかぶさっている小山だったそうです。
それがなぜ、石室を露わに崩されているのでしょうか。
現在の有力説には、横暴だった蘇我氏への腹いせに、排仏派が墓を暴いたと云うものがあります。
しかし真実は別のところにあるようです。
用明大王は、池辺大宮の南側の道の南に、正方形の寿陵「桃原陵」を築きました。
寿陵とは、生前に造られた古墳をいうそうです。
その寿陵に土を盛るために、大宮の庭を掘ることになりました。
するとそこに大きい池が出来たので、「池辺の宮」と呼ばれるようになったと云うことです。
父の復讐を果たした上宮太子は、四天王寺の建設が終わると、摂津の玉造森村に森之宮神社を建てる仕事に出かけました。
推古女帝(額田部太后)はその隙に、用明大王の古墳・桃原陵の土を削り、廃墟になっていた池辺宮跡に盛る仕事を命じました。
すると巨岩で造られた石室が、ついにあらわとなりました。
その巨岩はあまりに重すぎて、運んで埋めることが放棄されたと云います。
石舞台古墳は、反対派が暴いた訳ではなかったのです。
用明大王のお骨は、太子町にある推古陵の西側に移されたと云います。
桃原陵は石室が剥き出しになったことで、かえって巨石の大きさを世間に印象づけることになりました。
「石舞台」と呼ばれた古墳の大岩は30数個もあり、特に石室の屋根の最大巨石は70tもありました。
太后はここにも、現代人に頭を傾げさせる謎の遺構を残し、今は明日香の名物となっていたのでした。