飛鳥寺:八雲ニ散ル花 82

投稿日:

pa310218-2017-04-13-23-00.jpg

585年に流行した疱蒼の癒えぬ大臣「石川麻古」は、敏達大王に申し出ることにした。
「三宝の力を受けなければ、わたしの病は治りそうもありません」
「わかった、石川家にのみ、仏法を行う事を許そう」
そう言うと、大王は石川麻古に、3人の尼を与えた。

588年に物部守屋が戦死し、四天王寺が建てられた。
「そろそろ機は熟したか」
仏教への強い反対者が少なくなったことから、石川麻古は明日香に寺を再建しようと考えた。
寺の名前は「法興寺」。
高麗の僧「恵便」が建築の設計をすることになった。
法興寺の建築は幾度も妨害され、反対派に焼かれては立て直すといったことが続いた。
そしてようやく8年かけて、法興寺は完成する。

やがて金堂の前に、大きな金色の大仏が運ばれてきた。
それは鞍作止利が作ったものだった。
しかしその釈迦仏は思った以上に背が高く、扉を壊さなければ金堂に収めるのが難しいと思われた。
「お待ちください、私めが堂内に入れましょう。とくと御覧じろ。」
そう言うと止利仏師は、数人の手を借り、仏像を寝かせてうまく金堂に運び入れた。
民衆は喝采し、次々に堂内に鎮座する釈迦仏を礼拝した。

ここに日本最初の本格的寺院が誕生した瞬間であった。

c1d-2018-05-23-19-00.jpg

1____p9307742-2017-04-13-23-00.jpg

静かな田園風景が広がる飛鳥の里。
そこに鎮座する「飛鳥寺」は、596年に蘇我馬子が発願して創建されたお寺で、「日本最古のお寺」と云われています。

p9307761-2018-05-23-19-00.jpg

「法興寺」「元興寺」「飛鳥寺」と名を変えてきた当院ですが、で現在は「安居院」と呼ばれています。
境内はこじんまりとしていますが、かつては東西に200m、南北に300m、今の約20倍もの敷地を有し、塔を中心に東、西、北の3つの金堂を配し、外側には回廊がめぐらされた大寺院だったと云います。
朝鮮半島から多くの先進技術者が呼ばれ、日本で初めて瓦を製造し、彼らは仏堂や塔の建設に関わりました。
建築の設計は高麗の僧「恵便」が行ったと云います。

1____p9307758-2017-04-13-23-00.jpg

法興寺・飛鳥寺の建設は順風満帆とはいきませんでした。
途中で、排仏派の何者かに、幾度も焼かれたと云います。
焼かれては立て直ししながら完成するまで、ついに8年かかったそうです。
現在は江戸時代に再建した元金堂の講堂のみが建っています。

1____p9307756-2017-04-13-23-00.jpg

593年の正月、金堂の前に塔を建てることになりました。
塔の礎石の穴には「舎利」が入れられ、心柱が建てられたそうです。
司馬達等が手に入れたという舎利は仏塔に奉納されました。
舎利とは、もともとは釈迦の骨を意味します。
しかし本物は簡単には手に入らない物であったので、日本では宝石を舎利として祀っていたそうです。
司馬達等が奉納した舎利は、おそらく翡翠かメノウの鉱石であったらしいと云います。
鉄の器に入れ、鉄の槌で叩いても割れなかった、と伝えられています。

1____p9307744-2017-04-13-23-00.jpg

飛鳥寺の一番の見所は「飛鳥大仏」です。
その威厳、その荘厳さに思わず見惚れます。
銅製の釈迦如来坐像で、高さ約3mの重要文化財です。

p9307745-2017-04-13-23-00.jpg

仏師「鞍作止利」(くらつくりのとり)が作ったとされる飛鳥大仏。
中金堂建設の後に作られ、扉を壊さずお堂の中へ入れたという話が日本書紀にあります。

p9307749-2017-04-13-23-00.jpg

現存する日本最古の仏像となっていますが、何度も火災ににあっており、2度の金堂消失と一時期雨ざらしにされていたこともあって、修復を繰り返してきました。
つぎはぎだらけの姿になっているのはそのためですが、かつては金ピカの美しい姿だったようです。

p9307751-2017-04-13-23-00.jpg

見る角度によって、表情が変わると言われる飛鳥大仏は、アーモンド型の目にアルカイックスマイルといった後世の大仏とは違った、やや西洋寄りのスマートな顔つきとなっています。
台座は銅では無く石が使用されており、飛鳥大仏は太古からそのまま、この場所に鎮座してると云われています。

p9307750-2017-04-13-23-00.jpg

ほとんどの寺院で御本尊などの撮影を禁止されている中、飛鳥寺のご住職からはご自由に撮影くださって結構ですとおっしゃっていただけました。
寺院建立にまつわるお話などもいただけて、とてもありがたいことです。

p9307752-2017-04-13-23-00.jpg

当院は石川大臣の息子「善徳」臣が寺司となり、慧慈と慧聡の2僧が住職となりました。
かつて百済からもたらされた木造の仏像も、石川精舎から移されます。

p9307753-2017-04-13-23-00.jpg

上宮太子の建てた四天王寺は、ヒンズー教の神を祀っているので正式な寺院ではありませんでした。
なぜならば仏教の創始者は、「ゴータマ・シッダルタ」いわゆる「釈迦」であったからです。
604年に尾治大王が即位し、新大王新任祝いに605年、高麗王から黄金300両が贈られてきました。
高麗王は法興寺伽藍の拡大を望んでいたので、大王や太子・重臣らはそれを法興寺で使うことを認めました。
こうして飛鳥京に、日本最初の本格的寺院が建立したのです。

c1d-2018-05-23-19-00.jpg

pa310219-2017-04-13-23-00.jpg

飛鳥寺の境内外に「蘇我入鹿の首塚」と伝わる供養塔があります。
乙巳の変で殺された入鹿の首は、ここまで飛んできたと云われています。

pa310217-2017-04-13-23-00.jpg

しかし当時はまだ、この五輪塔は伝わっておらず、蘇我入鹿とされる「石川林太郎」も乙巳の変で殺されていないと云うことです。
そもそも、乙巳の変は無かった、というのが真実のようです。

pa310221-2017-04-13-23-00.jpg

記紀は隠していますが、推古女帝の後に大王に就任したのは、女帝の息子「尾治大王」でした。
655年に用明天皇の后「間人太后」も、大王就任を宣言します。
難波の都に、飛鳥から役人が戻り、石川臣家関係の人々が役人として難波宮に多く集まりました。
間人女帝は越後方面の蝦夷95人と奥羽方面の蝦夷99人を集め、位階を表す冠を与えたと云います。
それは金銅の冠ではなく、絹製の色模様の冠でした。
また百済からの貢納の使いが250人訪れ、彼らを四天王寺や斑鳩寺に案内したと云われています。
このように、この時期は、難波王朝と飛鳥王朝との二王朝並立時代であったのです。

pa310216-2017-04-13-23-00.jpg

0617e9a39be9b3a5e5afba-2018-05-23-19-001.jpg

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中