鵲森宮 (森之宮神社):八雲ニ散ル花 80

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「鵲森宮」(かささぎもりのみや)は、大阪市中央区の一角に、こぢんまりとある神社です。
通称「森之宮神社」(もりのみやじんじゃ)といい、この辺りの地名「森之宮」の由来となっているそうです。

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御祭神は聖徳太子の両親である「用明天皇」、「穴穂部間人皇后」、そして「聖徳太子」です。
また奧社に「天照大御神」、「素盞嗚尊」、「月讀命」を祀ります。

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額田部太后は息子の一人、竹田皇子を暗殺によって失った時、太后の地位では皇子を守れないと感じました。
それで年少の尾張皇子を大王にするために、自分は大王になろう、と決心しました。
太后は豊浦大宮で593年12月に即位式を行い、豊浦大王となります。
いわゆる推古大王の誕生でした。
しかし大王は、男の補佐役が必要だと感じました。
そして翌年の4月、上宮太子を次の大王にすると約束し、大王代理の役を与えた、と云います。

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上宮皇子は当時、「大兄」と呼ばれていましたが、記紀では中国を真似て「太子」の言葉が使われました。
上宮太子は豊浦大宮の大殿で、すべての政務の総監督を行うようになります。
大王の職務を代行するその職を、日本書紀では、「摂政」と呼んでいます。
女帝は最高権力を持ちますが、職務は摂政が行うので、大王は豊浦大殿に時々顔を出すだけであったと云います。
また女帝は仏教を好みませんでしたが、太子と石川大臣に詔を発して、「三宝」(仏と法、僧)を興すことを示しました。
この三宝興隆の詔により、諸臣や諸連たちも、競って氏寺を造り始める事となったのです。

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太子は用明大王の次男で、母の穴穂部間人皇后は大豪族石川家出身でした。
聡明な太子を、次の大王になる人だろうと多くの人が考え、有力な豪族達が次々に太子に娘を贈りました。
また持参金として、領地をそれぞれ寄付したと云います。

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推古女帝は神社を建てるように、と太子に土地と資金を与えたのに、彼は四天王寺を建てました。
そこで女帝は、摂津国玉造に太子が建てた四天王寺を、西方の難波の上町台地西端の荒墓の地に移せと、命じました。
そこには百済人が建てた寺があったのですが、女帝はそれを壊すよう指示しました。
そして元四天王寺跡には、太子の父君を祀る神社を建てるよう費用を与えたと云います。

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そこに上宮太子は森之宮を建て、用明大王を祀りました。

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こぢんまりとした境内に、聖徳太子が命名したと伝わる井戸がありました。
「亀井水」と呼ばれ、自ら湧き出る霊水で入水すると病気が治ると伝えられています。

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