尾治大王の皇女「伊那部姫」は、上宮法王の元に嫁いだ。
大王は法王と血縁で結び、和睦したいと考えていた。
斑鳩宮の東方には、法王の母君「穴穂部間人姫」の住む中宮がある。
間人姫は、用明大王の没後、多米王と再婚したが、彼とと死別した後は法王の許に来ていた。
そこで、上宮法王は、母君の住む宮を建てていた。
伊那部姫は、法王の母君ともに住むことになり、法王は中宮で食事していた。
伊那部姫は法王が自分を「橘夫人」と呼ぶことに、不満を持っていた。
自分は尾治大王の姫である。
であるなら、伊那部后と呼ばれるべきだと思っていた。
また、母君と同居させるのも、不満であった。
613年、飛鳥時代の歴史を動かし続けた推古女帝が没し、627年6月には有名な大臣・石川臣麻古が他界した。
彼の菩提寺は法興寺となった。
上宮太子は斑鳩に大宮を建て、一族郎党とともに引っ越した。
しかし大王になるのに失敗し、斑鳩で孤立していた。
貝蛸姫が豊浦宮で死去した時、推古女帝は「法王の人気は、大王に不利だ」と伊那部姫に漏らしていた。
父の尾治大王は、「次の大王は法王である」と言い、法王を「上宮大兄王」と呼んでいた。
その男がどれほどのものか、伊那部姫は少なからず興味を持っていた。
上宮法王は孤立し、暇になったので、明日香の法興寺に通って教典の「疏」を書くことに専念した。
「疏」とは注釈書のことである。
609年に『勝鬘経義疏』を、612年に『維摩経義疏』を、614年に『法華義疏』を書いた。
これらを合わせて『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)という。
それはそれぞれ『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の三経の注釈書であった。
これらが出来たことは、仏教精神が日本で正確に理解されたことを意味していた。
推古女帝没後7年に、法王は斑鳩宮に石川臣麻古を呼んで、『天皇記』と『国記』を書き始めた。
法王はその仕事に生き甲斐を感じていた。
この歴史記録は、漢字で書かれた日本史の初めであった。
中官に住む伊那部姫が斑鳩宮を訪れたとき、その記録を目にした。
そこには、推古大王の次に上宮大王の名前があった。
しかし尾治大王の名前は、どこを探してもない。
伊那部姫はふつふつとした感情が沸き起こり、上宮法王が憎くなった。
「いっそ離縁してやろうか」
伊那部姫は考えた。
「私と法王は、相性が良くないのかも知れない」
様々な考えが頭をめぐり、中宮に帰って寝込んでしまった。
この時、「法王の人気が高いので、尾治大王が困っている」と呟いた、今は亡き女帝の言葉が思い出された。
621年の末の頃、突然、間人姫太后が倒れた。
法王が見舞うと、紫色に変わった顔の母君がそこにいた。
「…気をつけなさい、太子。お前はこの家で食事するのは、危ない。…私は、お前の食事の毒味をしたのです。」
結局、年をまたぐことなく、穴穂部間人太后は亡くなった。
以後、法王は斑鳩宮の西南にある膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)が住まう飽波官に移り住み、そこで食事するようになった。
それを見て、伊那部姫は法王のことがますます憎らしくなった。
翌年正月22日、母君の一ヶ月目の法事が伊那部姫の住む中宮で行われた。
その日の食事後に、法王と膳部君が発病した。
622年2月21日に膳部君が没し、翌日に法王が没した。
二上山の麓、大阪太子町にある「叡福寺」(えいふくじ)、そこは聖徳太子の古墳と伝わる墓所があります。
境内入口には、少々色あせた、朱色の南大門が構えています。
叡福寺は聖徳太子ゆかりの寺として、歴代の天皇や権力者に重んぜられてきました。
平安時代には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝しており、平清盛は子息の平重盛に命じて堂塔の修理をさせています。
また空海・良忍・親鸞・日蓮・一遍など、新仏教の開祖となった僧たちが、この寺に参籠したことが知られていると云います。
広々とした境内に、院内の建物が立ち並びます。
当院は、天正2年(1574年)の織田信長による兵火で大きな被害を受け、古代の建物は残っていないと云います。
その後、慶長年間、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を再興し今に至るそうです。
東面に釈迦・文殊・普賢の三尊を祀る多宝塔、
高さ90cmの如意輪観音坐像を祀る金堂があります。
正面奥に見える「二天門」、その先に「聖徳太子御廟」があります。
この磯長山 叡福寺は、「聖徳太子」と、その二ヶ月前に亡くなった太子の生母「穴穂部間人皇后」と、一日前に亡くなられた太子夫人「膳部大郎女」を葬ってあると伝えられています。
なぜ、その三人が一つの墓に葬られているのか、その答えは、富家の伝承の中にありました。
『本元興寺伽藍縁起』に「推古天皇が在位二一年癸酉(613年)に六十才で崩御した」と記録されています。
しかし『日本書紀』は、「推古天皇は癸酉年に七十五才で崩御した」とごまかしています。
推古女帝は己の御子を大王にするために、中継ぎの用明大王や上宮太子を任命しました。
結果、自分の御子であり尾治皇子を大王にすることに成功します。
しかし、皮肉なことに、彼女の采配で上宮太子が有名になったために、尾治大王の名は史書から消される結果になったといえます。
すなわち日本書紀は「尾治大王の存在を隠し、尾治大王の没年を推古女帝の没年に見せ掛ける」ことにしたのです。
その上宮太子を暗殺したのは、思いもよらぬ人物でした。
尾治大王の皇女「伊那部姫」は、彼女自身と父王を軽んじられたことに恨みを抱き、毒殺に踏み切ったのです。
伊那部姫の動向に不審を覚えた間人姫は、身を呈して息子の食事の毒味をしました。
彼女の感は的中し、それによって命を落とすことになったのです。
その後、太子は母の葬儀で、伊那部姫の食事を口にします。
彼に不注意があったとは思えません。
母の死を目に、世を儚む気持ちが、あったのかもしれません。
上宮太子は生前に大古墳を造るのを止め、寺を建てるべきだと、説いていました。
それで彼の遺体は、河内の科長の小さな円墳に葬られたと云います。
弘法大師・空海が一夜にして築いたと伝わる結界石に囲まれた、小さな円墳が、そこにはありました。
その石室には、母君が奥の石棺に、手前石棺の東側に太子が、西側に太子とともに天昇した膳部菩岐君が葬られていました。
叡福寺の真向かい、細い路地の先に、「西方院」(さいほういん)があります。
西方院の寺伝によれば、創立は推古天皇30年(622年)、開基は三尼公(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)とあります。
『河内名所図会』等に見える伝承によれば、聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女、「善信」(俗名月益、蘇我馬子の娘)・「禅蔵」(俗名日益、小野妹子の娘)・「恵善」(俗名玉照、物部守屋の娘)により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として法楽寺の寺号で創建されたといい、聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めたと伝わります。
物部守屋の娘といえば、太子は父の仇とも呼べる男です。
守屋は太子の父を焼き殺し、太子はその復讐で守屋を攻め殺しました。
彼女は世の因果を感じ取っていたのかもしれません。
仏の世に身を投じた恵善尼は、因果を捨て、仏教隆盛に尊い功績を残した太子の、儚い最後に哀れみを感じたのでしょう。
上宮法王の息子、「額田部財王」が、当時出雲国松江に任官していました。
彼は上宮法王が王の座を狙っていると感じ取り、彼の息子二人を、遠く出雲の地に赴任させたのです。
財王は父君の死去を聞いて急ぎ大和に行き、葬儀に参列しました。
法王の葬儀には、大和朝廷の代表として、尾治大王の側近になった息長系の田村皇子が参列していました。
財王は喪主の兄「山背王」に、話を聞いて帰ってきたと云います。
彼にもたらされた話は、父は橘夫人「伊那部姫」に毒殺された疑いがある、というものでした。
また都の重臣達の近況も聞いて、彼は出雲の富家にその真実を伝えました。
その後財王は、大和に帰る気をなくし、出雲で生涯を終えたと云うことです。
西方院から眺める円墳は、今はただ穏やかに、沈む太陽の日を浴びていました。