法隆寺:八雲ニ散ル花 83

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推古8年、女帝は、大臣の石川麻古を呼んで告げた。
「息子の尾張皇子が成人したら、次の大王に任命します」
「ちょっと待ってください、先に上宮太子を次の大王にすると約束したではないですか」
大臣は驚いて反対した。
女帝は冷たく言い放った。
「尾張大王の次に、太子を大王にします」
石川麻古は、黙ってその場を去るしかなかった。

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推古8年5月に太子は都から離れた斑鳩の地に宮殿を建て始めていた。
そこは太子の妻の一人、「膳部菩岐々美郎女」(かしわでのほききみのいらつめ)の親族、膳部臣家が協力していた。
膳部臣家は、古くは孝元大王の大兄皇子・大彦の子孫であった。
「やはりそうであったか。」
推古女帝の話を、石川麻古は上宮太子に告げた。
太子も薄々感づいていたことだった。

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上宮太子は斑鳩に引っ越した後、正妻の貝蛸皇女とその子「日奉王」と「財王」を、橘宮に置いたままにしていた。
貝蛸皇女は太子から沙汰がないので、斑鳩に様子を見に行った。
そこで見たのは、コの字型をした都に負けない立派な大宮の姿だった。

彼女は豊浦大宮にいる、母の推古女帝に、斑鳩大宮の様子を報告した。
女帝は驚いた。
「太子は大王になる気だ」
そう直感した。
「これは危ない、反乱になるとまずい。太子には、妻や子どもが大勢いる。彼らが挙兵すれば、尾治皇子は敵うまい。」
女帝はすぐその勢力を分散させねば危ない、と考えた。
彼女は娘の貝蛸皇女を豊浦大宮に引き取り、そして皇女の息子達を遠い出雲の地に赴任させた。

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かの有名な「法隆寺」は、聖徳太子の創建と伝わり、日本最古の木造建築と云われています。
南大門の先にある建物、「中門」です。
荘厳な門の左右に立つ金剛力士像は日本最古のものです。

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境内で最も目を引くのが「五重塔」です。
仏教寺院において、塔はお釈迦様の遺骨を祀る場として最重要視されています。

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法隆寺の五重塔は、日本で最古のものされ、心柱の大礎石に納められている舎利容器には釈迦の遺骨が6粒納められています。

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五重塔の屋根をよく見てみると、

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四隅を鬼が健気に支えていました。

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五重塔の隣には「金堂」があります。
ここには法隆寺のご本尊である「薬師如来」を中心とする「釈迦三尊像」が安置されています。

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柱には、見事な龍が彫刻されています。

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僧侶たちの研鑽の場である「大講堂」です。

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内部には、「日光菩薩」「月光菩薩」が左右に配置された「薬師三尊像」が鎮座します。

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大講堂は925年に一度焼失してしまい、990年に新しく建てられました。

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法隆寺は、現存する世界最古の木造建築として1993年に日本で最初に世界文化遺産に登録さました。

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601年2月、斑鳩大宮が完成し、橘宮から舎人たちが移った。
また、地方の国造たちが貢ぎ物を持って集まるようになった。
斑鳩大宮は当時の役所の形をして、中央に広場が、外側に太子の住居の大殿があり、横に四角の夢堂があった。
この大宮の形は、太子が大王になる準備をしたことを示していた。

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尾治皇子は彦人皇子の妹「橘皇女」を嫁に迎えていた。
これにより、尾治大王は息長勢力を味方にした。
603年10月、完成した小治田大宮に尾張皇子と舎人らが移り住んだ。
小治田大宮は外国使節を迎えても見劣りしない、立派な宮殿だった。
豊浦大宮の百官も、小治田大宮に移った。

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603年11月、上宮太子は斑鳩大宮に都の重臣を集めた。
石川麻古を始め、石川一族の雄正や山田麿、武蔵が中央に並んだ。
石川家出身の川上妃や小姉君もいた。
巨勢臣伊斯女君、大伴連糠手子や阿倍巨人、平群臣神手、膳臣賀多夫、紀男麻呂、葛城臣烏那羅、秦造河勝の面々が立ち並んでいた。
大宮の大庭の中央には式台が置かれ、その左右に大盾と由岐(矢筒)が並び、柱には幟旗がひるがえった。
太子はこの日、即位式を行い、「上宮大王」を名のった。
集まった人々は、「崇仏派大王が出現した」と口々に称えた。

新大王が述べる。
「今後は大きい古墳を造らず、氏寺を建てるのが良い」
その後、各豪族が次々に氏寺を建て、大きい古墳は造らないように変わっていった。

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推古女帝は上宮大王側に重臣が多く集まったのに驚いていた。
そこで小治田大宮に息長連系の重臣を集め、対策を練った。
女帝はそれまで、豪族家の家柄に応じて支払っていた給料を、官吏の能力に応じた階級で与えるよう改正した。
この位階は、世襲でなく1代限りとした。
また位階に応じた仕事をさせ、位階を冠の色で示すようにした。
いわゆる「冠位十二階」の発足である。

この冠位の制定は尾治皇子により発表された。
階級は徳と仁・礼・信・義・智という儒教の徳目に分けられ、さらにそれぞれを上と下に分けた。
色は徳が紫で、仁は青、礼が赤、信が黄色、義が自、智が黒というように決めた。
上は濃い色で、下は薄い色であった。
これは予想以上の効果があり、斑鳩宮に集まった重臣達も、上位の階級を得るために小治田大宮に集まった。

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604年元日、尾治帯彦の大王即位式が行われた。
数々の豪族たちが尾治大王の元になびき、斑鳩宮はさびれてしまった。
上宮大王は孤立し、上宮大王の名前は有名無実となった。

その年の5月、太子と石川麻古は共に謀って、斑鳩宮で仏法更興会を開き階級を与える、と発表した。
しかし出席者が少なく、爵位は有名無実であった。
ついに大王になれなかった太子を、僧侶や親族は「法王」と呼ぶようになった。

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法隆寺の境内を一度出て、東院伽藍へと向かいます。
その中心となる建造物が「夢殿」(ゆめどの)です。

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夢殿には、聖徳太子と等身と言われている秘仏「救世観音像」が中央の厨子に鎮座します。

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八角形の美しいお堂は、聖徳太子の功績を偲び、行信僧都という高僧が天平11年(739年)に建立しました。

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尾治大王は崇仏派も排仏派も大勢集まったので、あらゆる宗派に共通する規則を作ろうと考えました。
そして604年4月に、「官吏訓戒十七条」が発表されます。
いわゆる「十七条の憲法」と伝わるものです。
この官吏の職務規範である十七条は、彦人大兄が多くを作成したと伝えられています。

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十七条の内容は、中国の書を引用しているものが多いと云います。

一に曰く、和をもって貴としとなし、逆らうことなきを、宗とせよ。
二に曰く、厚く三宝を敬まえ。三法とは、仏と教典と僧侶なり。
三に曰く、 詔を受けては、かならず慎め。君をば天とす。臣をば地とす。
四に曰く、群卿百寮、礼をもって本とせよ。それ民を治むる本は、かならず礼にあり。
五に曰く、味わいのむさぼりを断ち、宝の欲しみを捨てて、明らかに訴訟をさだめよ。
六に曰く、悪を懲らし善を勧むるは、いにしえの良き法なり。
七に曰く、人おのおの任務分担あり。掌ること乱れざるべし。
八に曰く、群卿百寮、早く参りて遅く退出せよ。
九に曰く、信はこれ義の本なり。事ごとに信あるべし。
十に曰く、己の怒りを断ち、表の怒りを捨てよ。人の考えは違うことを知れ。
十一に曰く、功失を明かに見て、賞罰かならず当てよ。
十二に曰く、国司・国造、百姓に重税を課することなかれ。国に二君なく、民に両主なし。
十三に曰く、それぞれの官に任命する者は、同じく織掌を知れ。
十四に曰く、群臣百寮、嫉妬あることなかれ。
十五に曰く、私を背きて公に向くは、これ臣の道なり。
十六に曰く、民を使うに時をもってするは、いにしへの良き法なり。ゆえに冬の月に間あらば、もって民を使うべし。
十七に曰く、それ事はひとり定むべからず。かならず衆とともに論ずべし。

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この「官吏訓戒十七条」の最も重要な点は、第十二条の「国に二君なく、民に両主なし」にありました。
つまりこれは、上宮太子の反乱を収め、戒める目的があったと云います。
やがて法王(太子)は、官庁の仕事から追放されていきました。

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そして622年、上宮法王が急死しました。
尾治大王は山背王を後継ぎに指名し、「山背大兄王」と呼ばれるようになりました。

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夢殿の奥に、「中宮寺」があります。

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627年頃、「伊那部橘夫人」が間人太后の霊を祀るために、中宮寺を建てるよう山背王に求めました。

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寺ができると橘夫人は出家し、尼となり寺の管理をすることにしました。
彼女は尾治大王の皇女でしたが、上宮法王の夫人として与えたのでした。

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中宮寺は、水の上に浮かぶ、美しい御堂です。

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中にある「弥勒半跏思惟像」は三大微笑像と言われ、国宝に指定されています。

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この弥勒像のモデルは、上宮太子の母、「間人太后」だと云います。
顔はうつむきがちで、静かに目をつぶり、その顔は悟りを開いた様子で、かすかな頬笑みを湛え、永遠の慈愛に満ちています。

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上利仏師の傑作のひとつですが、間人太后が法王のために、昇天したことを知り、その母性愛を表現したかったのかもしれません。

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法隆寺から少し離れたところにある「法起寺」(ほっきじ)も、聖徳太子による建立と伝わります。
秋にはコスモス畑の中に三重塔が見え、とても風流です。

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山背大兄王は斑鳩寺を再建しました。
それは父君、上宮法王が建てることの出来なかった寺であり、父君の意志に応えたものでもありました。
寺院を建立した山背王は、亡き父君が「夢堂の中の百済観音を、日本的な観音像に作り直したい」と言ったのを思い出しました。
それで百済観音を、斑鳩寺に移したと云います。

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百済観音はとても荘厳で美しく、見上げるほどの大きさに圧倒されます。
法隆寺内で見ることができます。
これは止利仏師の父、「鞍作多須奈」(くらつくりたすな)の作であると云います。
太子が四天王寺建立の折、取り壊す予定だった難波の荒墓の金堂内で見つけた観音像でした。
太子は大層惚れこんで布に包み、持ち出していたのです。

鞍作止利はこれを見て、大層喜びました。
なぜなら百済観音は壊された、と思っていたからでした。
百済観音は大切に、布を巻いて保存されていました。
止利は法王に感謝し、彼をモデルに、救世観音立像を造りました。
それは法王と等身大の仏像で、体つきも法王に似せて造られました。
今は夢殿に鎮座しています。

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止利仏師とは、「玉虫厨子」で有名な、「鞍作止利」(くらつくりのとり)のことです。
彼の技術は、飛鳥文化の中でも群を抜いて際立っていました。

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伊那部橘夫人は、救世観音像を見ると、あまりにも太子に似ているので苦しくなり、それで布で包んだのだそうです。
夢堂の中に大きな厨子を造り、その中に像を収めました。
そのため後世まで、秘仏として扱われました。

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明治時代まで眠っていた救世観音像は、アメリカ人「フェノロサ」によって再び日の目を見ることになります。
その素晴らしさは、彼を魅了し、斑鳩に1年あまり滞在させるほどでした。
彼はさらに日本中の文化財を調査します。
太平洋戦争中、アメリカ軍の焼夷弾が日本の町々を焼きましたが、その時、アメリカの日本文化愛好者が作った調査地図により、日本各地の重要文化財が守られたと云います。

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日本人の大切な精神文化を戦禍から守られた背景には、実に飛鳥仏像の影響と一人のアメリカ人の存在があったのです。

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「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
「法隆寺の茶店に憩ひて」と前書きとともに綴られる正岡子規の有名な俳句です。
上宮太子の愛した「斑鳩」、そこは飛鳥文化の香りただよう、古都の風が吹いていました。

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