奈良県橿原市、神山「二上山」に相対するように鎮座するのが「磐余神社」(いわれじんじゃ)です。
街中にあって広い境内。
長い参道の先に社殿があります。
祭神は「神日本磐余比古命」、つまり「神武天皇」が祀られています。
しかし真に祀られている人物は、実は「大津皇子」ではないか、という話を見かけました。
大津皇子は、天武天皇の数多くいる息子の一人です。
「体格や容姿が逞しく、寛大で、幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。
成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。
このため、大津皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた」と言われるように、時期帝として有望な一人でした。
しかし彼は、686年10月25日(朱鳥元年10月3日)、讒言により反逆の汚名を着せられ、訳語田の自邸で死を賜り、妃の山辺皇女も殉死されたとあります。
この背景には、天武帝の后にして後の持統天皇となる「ササラ姫」の、我が御子「草壁皇子」を帝位につけたいがための陰謀であった可能性が示唆されています。
大津皇子の姉である「大来皇女」(おおくのひめみこ)が、伊勢の斎王を勤めていましたが、天武天皇の崩御の後に大和に戻ってみれば、弟が非業の死を遂げていました。
そこで、弟の御魂を弔うため、亡骸を「磐余」の地から、二上山の麓に埋葬したそうです。
磐余から二上山の方角は、彼が亡くなった晩秋の夕日が沈む方角でした。
当社から二上山は、遥拝するのに最適な場所にあります。