奈良の長谷寺鎮守として鎮座する「與喜天満神社」(よきてんまんじんじゃ)は、長谷寺の寺領として伐採が禁じられてきた、455mの与喜山の中腹にあります。
そこは、古代大和国では最初に太陽があがる神聖な山として、天照大神降臨の地と祀られていたと云います。
長い石段の途中にある社務所には、小ぶりな磐座が祀られていました。
天照大神降臨の話は、『倭姫命世記』にある、「伊豆加志本宮」(いつかしもとのみや)の比定地とされていることに関係があると思われます。
『倭姫命世記』(やまとひめのみことせいき)とは、天照大神の御神体である「八咫鏡」(やたのかがみ)が、崇神天皇の御所から離れ、伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に落ち着くまでの各地還幸の事跡を記した書となっています。
当記は神護景雲2年(768年)、禰宜(ねぎ)の五月麻呂(さつきまろ)の撰と伝えていますが、実際は建治・弘安(1275-1288年)の頃、伊勢の神宮(伊勢神宮)の豊受大神宮(外宮)の神官をしていた「渡会行忠」(わたらいゆきただ)の撰であると云われるもので、偽書として名高い書物の一つです。
富家の伝承を知った今となっては、その真偽を問うまでもないのですが、たとえ由緒が正しくなくとも、そこに長く祭祀する願いがあれば、そこはやはり聖地然としてくるものと思われます。
なのでのんびりとではありますが、倭姫命世記の比定地を訪ね歩いてみようと思います。
長くきつい、坂道と石段の参道を登っていくと、興喜天満神社の聖域が見えてきました。
階段は長くきついものですが、所々に磐座などがあり、楽しませてくれます。
倭姫命世記は、その名の通り、「大和姫」(ヤマトヒメ)の還幸の様子が中心となって記されていますが、前半は、前任であった「豊鍬入姫命」(トヨスキイリヒメノミコト)の還幸について触れられています。
比定元とされる「伊豆加志本宮」とは、豊鍬入姫が8年間奉斎した宮であると記されていました。
その荘厳な社殿が姿を現します。
当社の現祭神は、天満社とあるように祭神は、「菅原道真」公です。
由緒によると、寛平の頃(890年頃)與喜山の樵夫(きこり)が仕事をしていた時、小屋に誰かが「これを祭れ」と木像が投げこんできたそうです。
その頃、長谷寺に菅原道真公が参詣に来られていたので、公の御作として樵夫は大切にそれを祀りました。
天慶9年(946年)の9月18日の明け方、修行を積んだ武麿は高貴な翁の夢を見ました。
その2日後、現在の切石御旅所の地を通りかかると、高貴な翁が座っていたそうです。
翁が川で禊ぎをした後、十一面観音を参り、瀧蔵権現に参ると、急に黒雲が湧いてきてその翁を包み、「私は右大臣正二位天満神社菅原道真である。私はこの良き山に神となって鎮座しよう。」と語ったと云います。
本殿の両脇には、
小さな社が立ち並んでいます。
山中の社ですが、境内はとても清浄に保たれていました。
また辺りには磐座も多数祀られています。
これら太古の太陽神祭祀に関係があると云われているようです。
幸神信仰につながる夫婦岩などもありました。
磐座の先に裏参道があったので、歩いてみました。
その道は苔の道になっていて、とても侘びています。
往古に想いを馳せて歩いていると、長谷寺が姿を見せていました。