首里城

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那覇空港を降り立つと、すぐ南にある瀬長島。
そこに近年新しくオープンした、注目の「ウミカジテラス」があります。

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美しい海に地中海を思わせる真っ白な建物。

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お買い物・お食事も楽しい、トロピカルなインスタ映えスポットです。

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さて、修学旅行の定番、「首里城」へやってきました。

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駐車場から出ると、すぐに「守礼門」が迎えてくれます。
扁額の「守禮の邦」とは「琉球は礼節を重んずる国である」という意味になります。
平成12年(2000年)7月に沖縄で開催された第26回主要国首脳会議(九州・沖縄サミット)開催を記念して発行された二千円札に描かれたのが、この守礼門です。

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14世紀に築城されたとされる首里城は琉球王朝の中心であり、かつて栄華を極めた城でした。
しかし昭和20年(1945年)の沖縄地上戦により大破します。

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後の当地には琉球大学が建設され、それに伴い、城壁だけが残され建物は完全に破壊されました。
昭和33年(1958)に守礼門が再建され、昭和50年代後半からようやく本格的な首里城の復元が始まります。
ほぼ現在の形に再現されたのは平成元年(1992年)のことです。

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平成12年(2000年)に当地を含む琉球王国の城跡「グスク」群が世界遺産に登録されましたが、首里城においては再建された建物や城壁は含まれず、元々から存在した城壁のみの「首里城跡」としての登録になりました。

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「園比屋武御嶽石門」(そのひゃんうたきいしもん)と呼ばれる、この古い石門は世界遺産に含まれます。

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首里城の正門である「歓会門」(かんかいもん)です。

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中国皇帝の使者「冊封使」などを歓迎するという意味でこの名がつけられたと云われています。
また「あまへ御門」とも呼ばれ、「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味しています。

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門の両側には威厳のあるシーサー像が鎮座しています。

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シーサーは魔よけの意味をもっています。

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古代琉球では、古代日本の歴史と同じく、長く続いた貝塚時代のあと農耕文化へと移り、社会を形成していきます。
このころから村の守り神としての拝所、聖地「御嶽」(うたき)が作られていったと云われています。
やがて海外交易も盛んに行われるようになり、交易で得た富や権力を元に「按司」(あじ)と呼ばれる指導者が地域を治め、グスクが築かれることになります。
その後、各集落は勢力争いへと発展していき、沖縄本島は大きく『北山』『中山』『南山』の3つの勢力が支配する「三山時代」へと変わっていきました。
この時代は、日本では鎌倉時代にあたり、有力な武士が支配力を強め小国家を形成していた時期と丁度重なります。

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この三山を「尚巴志」(しょうはし)が統一し、「琉球王国」が誕生するのは1429年のことです。

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琉球王朝を誕生させたのはこの「尚巴志」(しょうはし)であり、彼が初代の王となります。
しかし琉球の歴史(神話)では、最初の王は「天孫」と称されています。

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「天孫」は天命を受けて降臨し、琉球の島々を造ったとされ、今の沖縄に数多く残る御嶽の神話元になっています。
この話も、どことなく日向神話の「天孫降臨」に似ています。

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第一尚氏王朝時代が始まると、日本や中国、東南アジアとの貿易も精力的に行われるようになり、三線、泡盛、紅型といった琉球文化の基礎が当地に流入していきます。
首里城には、中国からの使者「冊封使」が訪れるようになり、もてなしの儀式や宴会などが催されたと云います。

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第一尚氏王朝の「尚徳」が最後の王となり、先の王朝の官僚であった「金丸」が即位します。
金丸は「尚円」と称し、これが19代続く第二尚氏王朝の始まりとなって、本格的な王朝の繁栄が訪れました。

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中国の影響を色濃く受けた首里の宮廷文化は、華やかで優美なものでしたが、やがてこの外部との交易で得られる利権争いによって様相が一変していきます。

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そこに目をつけた薩摩・島津藩の琉球侵入とともに、第二尚氏王朝は、日本の実質統治下に置かれることとなっていったのです。

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いよいよ最上階の「広福門」(こうふくもん)に辿り着きました。

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そこからは那覇の市街が一望できます。

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広福門の中は広場になっており、奥に首里城正殿が構えています。
その広場にポツンとあるのは「首里森御嶽」(すいむいうたき)。
礼拝のための聖地であり、琉球神話では「神に作られた聖地」と記されます。

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いよいよ正殿をご拝謁!
と思いきや、なんと思いっきり修復中でした。

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興を削がれた僕は、そこそこ高い入場料を惜しみ、中に入りませんでした。

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帰り道、奥につながる道を進むと、ちょっぴり正殿が垣間見えていました。

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