竹富島

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台風通過後、那覇に降り立った僕らは、空に青空が広がっていたので安堵したところでした。
そしてそのまま石垣島に向かったのですが、

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その上空はどんよりとした、分厚い雨雲が覆っていたのです。

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曇天の石垣島から船で「竹富島」に向かいました。
美しい海でトロピカルなひと時を過ごす予定で。
しかし当然、竹富島にも、僕の瞳から流れ落ちるものと同じ水滴が、降り落ちていました。

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仕方なし。
僕らは予定を変えて牛車で島内を散策することにします。

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この日、僕の心を癒してくれたのは、心は優しく力持ちの水牛「琉太」(りゅうた)くんです。

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島に流れる時間と同じくらい、ゆっくりと歩みを進める琉太くん。

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時には石垣に生えた草花を盗み食いする彼ですが、

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細い道や曲がり角も、上手に牛車を牽引してくれます。

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島内の集落は、珊瑚の石垣で囲まれた、低く赤い屋根の、沖縄の原風景を彷彿とさせる家屋が立ち並びます。

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周りの細い路地には、これも珊瑚でできた白い砂が敷き詰められています。

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石垣には季節の花々が植えられた家が多く、訪れる者を歓迎してくれます。

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この珊瑚の石垣は、専門の工人が形を見極めて巧みに積み上げます。
接着剤などは使わず、石の凹凸だけで見事に組み合わされています。

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屋根の上、門の上にはシーサーが鎮座しており、ポーズも表情も様々な彼らをフォトコレクションしていくだけでも楽しそうです。

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竹富島には「安里屋クヤマ」(あさとやくやま)の生家があります。
彼女は18世紀の琉球王国・八重山諸島の女性で、民謡「安里屋ユンタ」により広く知られている女性です。
クヤマは絶世の美女として広くその名が知られていましたが、彼女が16歳の時、首里の王府から派遣されて来た「目差主」(みざししゅ)に一目惚れされ、賄い方(島妻)になって欲しいと求められます。

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しかしクヤマは目差主の求婚を拒み、目差主の上司である「与人」の賄い方となりました。
やがて与人が転任のため島を離れる時、クヤマは村きっての一等地に三反二畝の土地を与えられたと云われます。

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クヤマは、与人が島を去った後一生独身で暮し、子どもはなく、島の貧しい家の子どもたちの面倒を見た聖女として伝えられていました。

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牛車の旅も終盤になってきた頃、語り部のおじさんが三線を手に、「安里屋ユンタ」を歌い始めます。
とてものどかな、島時間を過ごすことができました。

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沖縄そばで腹ごなしをした後は、歩いて散策してみます。

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竹富島に限らず、沖縄諸島の島々には、いたるところに「御嶽」(うたき)と呼ばれる聖地があります。

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御嶽は八重山地方では「おん」と、また宮古地方では「すく」と発声されます。
御嶽は琉球の神が存在、あるいは来訪する場所であり、また祖先神を祀る場でもあるとされます。
そこは現在も、往古から綿々と祭祀が行われている聖地なのです。
琉球の信仰では神に仕えるのは女性とされるため、王国時代は完全に男子禁制でした。
現在でもその多くが一定区域までしか男性の進入を認めておらず、ましてよそ者の僕が、勝手に足を踏み入れて良い場所ではないのです。

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それでも訪ねてみたい御嶽があり、民家を離れ、寂しげな道を、雨の中しばらく歩いていきました。

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途中、「神が見つけた井戸」と云われる「ミーナカー」がありました。

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「カー」とは井戸のことです。

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そこには地下へ続く、細い岩の裂け目がありました。

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しかしとても、これを降りていく気にはなれません。

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さらにしばらく進むと、目的の御嶽が見えてきました。

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「久間原御嶽」です。

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竹富島では、オン(御嶽)をヤマ(山)と言うそうです。
ヤマとは高い所という意ではなく、鬱蒼と木が生い茂る、いわば森のような場所を意味するようです。
御嶽は琉球古来の聖地なのですが、なぜかこうして鳥居が設置されているものが散見されます。
これは明治維新から琉球処分以降の「皇民化政策」による神道施設化の結果であり、本来のものではありません。
皇民化政策とは大日本帝国の統治地域における日本人以外の民族に対し、日本皇室への忠誠及び同化を指導した政策のことです。
この御嶽の前にある鳥居は、御嶽を信仰する民人にとって冒涜であるように思うのですが、なぜか戦後もそのまま鳥居が残されている場所が少なくありません。

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違和感アリアリの鳥居ですが、結界の目印としては良い役割を果たしているように思います。
つまり僕らよそ者は、この鳥居から決して、一歩も中に入ってはいけないのです。
ここから先は村民のための聖地であり、村民であってもおいそれと入ることのない、厳重なルールによって守られた、祖霊を祀り拝む場所です。
鳥居ギリギリまで迫り、中を垣間見せてもらいましたが、暗く鬱蒼とした森の先に素朴な建物があり、その先に少しだけ、石垣のようなものが見えました。
おそらくその先が、不可侵の聖地なのです。
こうして鳥居から垣間見ているだけでも、畏れ多い気分になります。
くれぐれも、鳥居から先に足を踏み入れてはなりません。

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竹富島には「島立伝説」(六山伝説)というものがあります。
 ムーヤマ(六山)とは、竹富島にある、六つの重要なオンのことで、そこが島の村の始まりであると伝えています。

『琉球国由来記』(1713年)には次のように記されています。

昔、竹富島に「根原カンドゥ」「アラシハナカサナリ」「幸本フシガーラ」「久間原ハツ」「タカネトノ」「塩川トノ」という六人の酋長がいました。
彼らは住民をこよなく愛し、平和に暮らしていたと云います。
しかし村には、守護神・豊作の神がいなかったので神の招来を願ったところ、琉球の諸島から次のように神々が渡来し、各オンに祀られました。

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屋久島から渡来した神は、根原カンドゥによって「玻座間御嶽」に祀られました。
沖縄本島から渡来した神は、アラシハナカサナリによって「仲筋御嶽」に祀られました。
久米島から渡来した神は、幸本フシガーラによって「幸本御嶽」に祀られました。
沖縄本島から渡来した神は、久間原ハツによって「久間原御嶽」に祀られました。
沖縄本島から渡来した神は、タカネトノによって「花城御嶽」に祀られました。
徳之島から渡来した神は、塩川トノによって「波利若御嶽」に祀られました。

このようにして、渡来した神はそれぞれ祀られましたが、またその酋長たちもオンの神として祀られています。
口頭伝承では六人の酋長たちが、それぞれの島から渡来した神であると語られています。

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さらに竹富島では耕地が少ないので、領地争いの紛争をなくすために六人の酋長たちが次のような土地の分配話し合いをしたと伝えています。

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玻座間村の根原カンドゥは、ミシャシ(美崎)付近の土地を所有し、粟作に努めたので「粟の神」になりました。
また、北の美崎のアイヌソイ・イルノソイなどの大きな岩の近くの海を領有しました。

仲筋村のアラシハナカサナリは、島の中央部の土地を所有し、麦作に努めたので「麦の神」になりました。
また、竹富島の戌亥(北西)の海を領有しました。

幸本村の幸本フシガーラは、竹富島の西方のフージャヌクミ付近の土地を所有し、豆類を栽培したので「豆の神」になりました。
また、竹富島の西の海を領有しました。

久間原村の久間原ハツは、ヒシャール・クムイ・カイジなどの土地を所有しましたが、耕作地として不向きだったので、植林に励んで「山の神」になりました。
また、島の未・申(南西)の海を領有しました。

花城村のタカネトノは、土地よりも海を所望し、竹富島の卯・辰・巳・午(東~南)の海の所有者になりました。

波利若村の塩川トノは無欲な人だったので、新里村の一角のわずかな土地と竹富島の寅(東北)の海を領有しました。
しかも彼は、一番若かったので「雨の神」になって、先輩の酋長たちの作物の生長を祈ったと云います。

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このように竹富島のムーヤマの話は、お互いに協力し合い争いを避けて平和的に解決しようとする、琉球人らしい「うつぐみの心」が記されていました。

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竹富島でのひとときの終わりに、愛らしい島猫を見つけました。

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この日の雨を避けるように、二匹の猫が、公園の屋根の下で、寄り添って寝ています。

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この二匹は、どういう関係なのでしょうか。

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どことなくハートのようにも見えて、可愛いです。

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僕の気配に気づいているのでしょうが、全く動じる様子はありません。
つい調子に乗って、いろんな角度から写真を撮ってしまいました。

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平和な小島の「うつぐみの心」は、島猫にも伝わっているようです。

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