善光寺

投稿日:

a020292-2018-10-15-21-24.jpg

584年、百済から2体の仏像がもたらされた。
それらを貰い受けた石川臣麻古(蘇我馬子)は、自宅に仏殿を造った。
それは「石川精舎」と呼ばれた。
麻古は高麗人の僧「恵便」(えべん)にこれを修行させ、多くの人々が礼拝した。

日本書紀に、これは「日本仏法の始まりである」と記されている。

600年(推古8年)、信濃国出身の僧「善光」が難波の溝で、なにやら光る物を見つけた。
それは、石川臣麻古が拝んでいた件の仏像であった。
『上宮法王帝説』によると、それは570年に排仏派により、 難波の溝に捨てられたものと記されている。
麻古の石川精舎は排仏派に焼かれていた。

善光は苦労して、その仏像を国元に運んで、寺を建てた。
その寺は、善光寺と呼ばれた。
善光寺は仏教が諸宗派に分かれる以前にすでに存在したことから、宗派にとらわれることなく、また女人禁制が当然とされる仏教の中でも性別の差なく、何人も受け入れられ、救いの手を差し伸べられている。

善光僧は、後に相模国に移住した。
鎌倉時代に彼の子孫は一遍上人と出遭い、家に当麻寺を建て、上人の弟子になった。
善光僧の子孫「本田家」は、今も当麻寺近くに住んでいる。
善光寺の大祭の際には、1400年後の今でも、相模の善光の子孫を招き、彼に寺主の横の良い座席を与える、と云う。

c1d-2018-10-15-21-24.jpg

a020256-2018-10-15-21-24.jpg

「遠くとも 一度は詣れ 善光寺」
一生に一度お参りすれば極楽浄土が約束されると伝えられる「善光寺」を参拝して来ました。

a020259-2018-10-15-21-24.jpg

参道を歩くと、びっしり敷き詰められた、大きく立派な石畳に目が行きます。

a020321-2018-10-15-21-24.jpg

仁王門です。

a020315-2018-10-15-21-24.jpg

ここに安置される金剛力士像の迫力に、圧倒されます。

a020316-2018-10-15-21-24.jpg

善光寺の金剛力士像は、左側に阿形、右側に吽形となっており、通常とは逆の配置になっています。

a020312-2018-10-15-21-24.jpg

仁王門から三門までは、賑やかな仲見世通りが続いています。

a020313-2018-10-15-21-24.jpg

善光寺は、山内にある天台宗の「大勧進」と支院25院、浄土宗の「大本願」と塔頭14坊によって運営されています。
しかし善光寺には、一般の寺院が持っている檀家は無く、よって葬式などによる収入はありません。

a020264-2018-10-15-21-24.jpg

つまり寺としての財政は厳しいものがあり、善光寺は庶民の浄財によって建てられたと言っても過言ではないのです。
この善光寺に荘厳さを演出する石畳も、1714(正徳4)年、江戸中橋の大竹屋平兵衛よりすべて寄進されたと伝わり、その数は7777枚あると云われています。

a020265-2018-10-15-21-24.jpg

三門が見えてきました。

a020266-2018-10-15-21-24.jpg

三門の手前右手に六地蔵が鎮座しています。

a020267-2018-10-15-21-24.jpg

六地蔵は地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天という仏教の六道を現していて、それぞれ六つの世界に赴き、人の苦しみを救ってくださるのだと云います。

a020268-2018-10-15-21-24.jpg

その中でも一番手前の地蔵様は地獄界を担っているそうで、誰かが地獄へ落ちそうになったらすぐに駆けつけられるよう、片足を下ろしてスタンバイしてくれています。
俗にまみれた僕にとって、心強いお地蔵さんです。

a020269-2018-10-15-21-24.jpg

子を抱いたお地蔵さんもいたり、

a020270-2018-10-15-21-24.jpg

六地蔵とは別に、一人離れたところに鎮座するお地蔵さんもいらっしゃいました。

a020275-2018-10-15-21-24.jpg

思わず見上げてしまう壮大な建築物、「三門」。
僕はこれまで、三門は山門だと思っていましたが、本来は三門が正しいようです。
中央の大きな門と左右の小さな門との3門を連ねて1門とした形式を三門と呼んだようで、これが仏教寺院に多用された結果、寺院の仏殿前の門を、形式に関わらず三門と呼ぶようになったとのことです。
やがて寺院がもっぱら山林にあり山号を持つから山門とも呼ばれるようになったそうです。

a020271-2018-10-15-21-24.jpg

寛延3年(1750年)建立、国の重要文化財となった善光寺の三門。
楼上に掲げられた扁額は、輪王寺宮公遵法親王の筆によるものです。
通称「鳩文字の額」として有名な扁額。
よく見ると、鳩が文字の中に5羽隠れています。
善の文字と光の文字の点にそれぞれ2羽隠れているのはすぐに分かりましたが、寺に隠れている1羽が僕にはよく分かりませんでした。
なんでも寺の点の部分が、鳩になっているのだとか。

a020273-2018-10-15-21-24.jpg

また、この「善」の文字は、牛の顔に見えるようにデザインされていて、「牛に引かれて善光寺参り」の信仰を伝えているのだそうです。

a020294-2018-10-15-21-24.jpg

三門をくぐり見えてくる本堂。
この荘厳たる善光寺本堂は国宝に指定されています。
実は三門は、本堂から遅れること44年後に建てられたのだそうですが、その時、この本堂がより荘厳に見えるよう演出がなされました。
確かに三門の柱が空間を切り取り、まるで額縁に収められた一枚の絵のように本堂が見えます。
しかしここで、当時の意図をより正確に得るために、一工夫必要です。

a020297-2018-10-15-21-24.jpg

少し屈んでみてみます。
すると本堂の上部に空間が広がり、より浮き上がって見えます。
そう、僕の身長は180cm、当時の日本人はもっと背が低かったのです。
当時の日本人の平均身長150cmあたりを意識して屈んでみてみると、江戸時代の演出をより感じることができる仕組みです。

a020276-2018-10-15-21-24.jpg

江戸時代末期には年間の参拝客は20万人以上にのぼったという善光寺。
都会・長野市は、善光寺の門前町が発展したものと云います。
幾度も戦禍を被るも、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康ら各有力大名の支持も受けてきた名刹です。

a020278-2018-10-15-21-24.jpg

その善光寺が最も賑わうのが、7年目ごと(丑年と未年)に行われる「善光寺前立本尊御開帳」。
しかしご開帳とはいえ、実際に開帳されるのは秘仏の本尊の代りである「前立本尊」となります。

a020280-2018-10-15-21-24.jpg

西暦644年創建と云われる善光寺。
本尊である「一光三尊阿弥陀如来像」は、白雉5年(654年)から絶対秘仏とされており、現在は本堂「瑠璃壇」厨子内に安置され、その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされています。
三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される本尊は、丈一尺五寸、天竺の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済の聖王(聖明王)を経て、難波の津に漂着したと伝えられます。
が、その秘仏は石川臣麻古、いわゆる蘇我馬子の所有した仏像でした。

a020281-2018-10-15-21-24.jpg

富家の伝承にその経緯が詳しく記されています。
552年の10月、百済の使者が来日し、金銅仏1体と仏教経典数巻がもたらされました。
それは「仏教の公伝」と言われます。
584年、再び百済から、2体の仏像がもたらされました。
時の大王「敏達帝」は、それを石川臣麻古に授け、石川の自宅にて安置させました。
麻古の仏殿は、「石川精舎」と呼ばれました。
しかし石川精舎は、物部守屋ら排仏派によって燃やされ、仏像は難波の溝(小川?)に捨てられてしまったのです。

a020306-2018-10-15-21-24.jpg

時が過ぎて、600年(推古8年)、善光が溝に光る仏像を見つけ、苦労して国元の信濃へ持ち帰り、これを仏殿に祀ったのが善光寺の始まりです。
本尊が絶対秘仏とされるのは、正に日本最古の仏像であることと、おそらく腐食等の老朽化激しく、原型をほぼ保てていないからなのではないかと思われます。

2018e5b9b410e69c8815e697a508e6998202e5888627e7a792e38388e38299e383a9e38383e382afe38299e38195e3828ce381bee38197e3819f-2018-10-15-21-24.jpg

絶対秘仏の御本尊ですが、その御本尊に最も近づく方法があります。
それが「お戒壇巡り」。
本尊が鎮座する瑠璃壇の床下の真っ暗な回廊を手探りで歩くというものです。
戻ってくると新たに「生まれ変わる」ことができると云われていますが、回廊の途中に本尊と繋がっているという「極楽の錠前」に触れると、本尊と結縁(けちえん)を果たし、往生の際に迎えに来て頂けるという約束を貰えるのだとか。

a020286-2018-10-15-21-24.jpg

境内を散策してみます。

pa020289-2018-10-15-21-24.jpg

善光寺は山号を「定額山」(じょうがくさん)と言い、無宗派の単立寺院となっています。

a020285-2018-10-15-21-24.jpg

現在は天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されています。

a020290-2018-10-15-21-24.jpg

住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務めています。
「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務め、尼寺である「大本願」の「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれる住職は、代々公家出身者から迎えているそうです。

a020299-2018-10-15-21-24.jpg

ところで「牛に引かれて善光寺参り」という言葉。
これは善光寺に伝わる、有名な昔ばなしになります。

a020298-2018-10-15-21-24.jpg

昔々、信濃国小諸にケチで性悪のおばあさんが住んでいました。
おばあさんがある日、川で布を洗濯し、それを軒先で乾かしていたところ、一頭の牛が現れて角で布を引っかけ、そのまま走り出してしまいました。
ケチなおばあさんは、布を取られまいと牛を追いかけ、なんと善光寺まで来てしまったのでした。

a020301-2018-10-15-21-24.jpg

おばあさんが善光寺にたどり着いた時は、もう日が暮れかけていました。
牛が入っていったお堂に入ってみると、おばあさんの布が光明に照らされています。
すると布についた牛のよだれが光って
「牛とのみ思いすごすな仏の道に 汝を導く己の心を」
と読めました。
たまげたおばあさんは心を入れ替え、信心深くなったのでした。

a020300-2018-10-15-21-24.jpg

おばあさんはしばらくして、近くの観音堂を詣でると、なんと観音様の首に牛にさらわれた布がかけてありました。
それを見たおばあさんは、あの牛は仏様の化身と知り、ますます善光寺への信仰を深めて往生を遂げたと云うことです。
この観音様は、長野県小諸市の断崖絶壁にある観音堂に安置される「布引観音」なのだと伝えられています。

a020303-2018-10-15-21-24.jpg

除夜に一般の参詣者も鐘をつくことができる善光寺の鐘楼は、「日本の音風景100選」に選ばれています。

a030002-2018-10-15-21-24.jpg

お土産には、牛の彫り物に入ったおみくじが、個人的にはおすすめです。

a020308-2018-10-15-21-24.jpg

e59684e58589e5afba-2018-10-15-21-241.jpge59684e58589e5afbae5a682e69da5-2018-10-15-21-241.jpg

5件のコメント 追加

  1. へえ~おもしろいですね ^^) ~~
    近々、伊勢神宮に行く予定なので、伊勢海老買いたいです(*^^)v

    いいね

    1. CHIRICO より:

      伊勢海老は赤と金があって、悩みますよ〜。
      あとおかげ横丁には、「おかげ犬」のおみくじもあって、これも色が豊富で悩んじゃいます。
      しかも別売りの座布団があって、座布団とおかげ犬の組み合わせが、切なくなるくらい可愛いです。
      おはらい町・おかげ横丁は時間を多めに作ってくださいね♪

      いいね

      1. 色がいろいろあると、たしかに悩みますね(^^;
        話を聞いただけで、おかげ犬も座布団あったほうがかわいいと思う(^.^)
        時間を多めにとります(^^♪

        いいね: 1人

  2. 牛の彫り物の中におみくじが入っているのですか?
    かわいいですね(^^)/

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      はい。
      最近は、縁起のある動物などの彫り物や焼き物におみくじが入ったものを、いく先々の神社やお寺でよく見かけます。
      春日大社では鹿、熊野大社ではヤタガラス、伊勢神宮のおはらい町では伊勢海老なんてのもありました。
      どれも可愛いので、つい買ってしまって飾り棚を占拠しつつあります(笑)

      いいね: 1人

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください