出雲を愛し、出雲に焦がれた男が、大和にいた。
紀元180年の頃、大和の実質的な指導者だった彼は「中曽大根彦」(ナカソオネヒコ)といった。
「大彦様、諏訪国まであと一息でございます、どうか。」
その男は大彦とも呼ばれた。
彼は東出雲の事代主を敬愛し、その子孫の名をもって「富彦」と名乗ったこともある。
大彦は大の物部嫌いであった。
ウマシマジら物部の一党は、登美家に世話になっておきながら、出雲の祭りの象徴、銅鐸を壊して回った。
そこで大彦は銅鐸祭祀を振興させようと戦を起こし、大彦側と物部勢力との激しい宗教戦争になった。
記紀の神武東征神話で、大彦は神武らを攻撃する賊「長髄彦」として記された。
長髄彦は大和の豪族「饒速日」によって殺されたと、嘘の話を残している。
しかし彼は、物部や大和の一党に殺されてはいない。
当初、大彦軍は優勢であったが、数年の戦で物部軍が優勢になった。
大彦が敗走したのは事実である。
その際、出雲の富家に助力を願ったが、出雲は吉備家の激しい攻撃を受けた直後であり、物部軍も攻めてくるとの噂があったので、彼に手を貸すことはできなかった。
その代わりに富家は、大彦に出雲王家の北陸の豪族を紹介した。
大彦らは一路北陸を目指したが、途中大彦の子「ヌナカワワケ」は道を別れ、伊豆に逃れた。
「もう、ここらでよい。」
大彦が腰を下ろしたのは、今は長野の篠ノ井と呼ばれるところだった。
その場所は、遠く離れた山あいのわずかな平地だったが、美しい千曲川が流れ、どこか懐かしく思えた。
奇しくもそこは、彼の敬愛する事代主の息子、タケミナカタが諏訪進出の折に滞在した場所であった。
現地の村人も、大彦を手厚くもてなした。
「ここから、ここからだ。私の一戦は破れはしたが、ここから私の子供らがこの国を統べる力となろう。物部を倒し、出雲の誇りを取り戻すのだ。」
「阿倍」を名乗った大彦の子孫には、若狭国造(福井県)になった「膳臣」(高橋家)や、高志国造(越後北部)になった「道公家」がある。
ここ北信濃から北陸にかけては大彦を祖とする布勢氏が栄えた。
大彦はしばらく篠ノ井の山里で暮らし、そこで生涯を終えた。
第一次物部東征によって大和に押し入った物部族と熾烈な戦いを繰り広げ、そして破れた大和・磯城の大彦王は北陸へ向かいました。
冒頭の写真は松本空港へ着陸する飛行機の中から撮影したものであり、篠ノ井の写真ではありませんが、流れる川や田園の雰囲気が出雲に似ていると思わず感じたものです。
長野市篠ノ井布施五明に「布制神社」(ふせいじんじゃ)があります。
山間の平地、のどかな町中に、石垣で囲まれた境内。
すぐ隣にはビニールハウスが建っています。
当社伝によると、布勢氏が祖神「大彦命」を祀った古社であるとされています。
布勢氏は阿倍氏とともに大彦命を祖とし、北信濃を含む北陸道に領地を広げました。
社殿は平成15年再建ですが、
内部を覗くと、文化6年造営と伝わる本殿が垣間見えています。
伝承では、大彦は布施五明海道北山の長者窪を本拠に北陸道や北信濃を鎮撫し、当地で薨じたと記されています。
長者窪は当地から西へ少し進んだ場所にある瀬原田あたりだといいます。
大彦は古事記では「長髄彦」と記され、日向から東征してきた神武天皇の敵対勢力として描かれて神武に恭順した饒速日によって殺されたことになっています。
ところが日本書記によると、崇神(イニエ)天皇が地方平定のため四道将軍を派遣、そのうち北陸道に派遣されたのが大彦命だと記されています。
四道将軍は他に、大彦の息子である「武渟川別命」(タケヌナカワワケノミコト)、「吉備津彦命」(キビツヒコノミコト)、「丹波道主命」(タンバミチヌシノミコト)の4人を指しますが、彼らは皆、2度の物部東征で敗走した大王家の人たちでした。
つまり、記紀は史実を偽り、でたらめの伝承を伝えているのです。
さて、大彦終焉の地を探して、グーグルマップで布制神社を検索していたら、困ったことに複数社、ヒットしました。
その一つを訪ねたら、住宅街の公園に来てしまいました。
なぜだろうと思って見てみると、隅に小さな布制神社が鎮座していました。
が、さすがにここが終焉の地ではなかろうと思い至ります。
長野市篠ノ井山布施、蛇行する山道86号線を上ったところにも、「布制神社」がありました。
社名を刻んだ石碑が立ちます。
短い参道ながら、両脇にそびえる木々が、威厳を示しています。
威風堂々たる拝殿。
往年の隆盛を物語ります。
が、裏に回れば、本殿は小ぶりで質素でした。
拝殿の横には折れて、倒れかけた巨木の姿。
周りには巨木の残骸が散らばっていますので、最近折れたものと思われます。
中がウロになっているので、限界だったのでしょう。
しかし折れてなお、威容を放つ巨木。
その隣には、謎の社殿が鎮座します。
何が祀られているのか不明。
社伝によると、神護景二年(768年)高橋朝臣国是之が、下総国結城布制郷の人民を従えて当地に移住し、宝亀八年(777年)布施氏の祖「大彦命」を勧請したと記されています。
また『信州宝鑑』に、光仁天皇の御宇(708-782)伊勢神宮の分霊を勧請とあり、当社は「神明宮」とも呼ばれていたそうです。
どうやらここも、大彦終焉の地ではなさそうです。
86号線を下ったところにも「布施神社」がありました。
ここは「布制」ではなく、「布施」となっています。
本来はいずれの神社も「布施神社」と記されていたそうですが、神仏分離令により、「布施」の字が仏教に通じるとのことで、「布制」に改められたのだとか。
しかし当社はタケミナカタは祀ってあるものの、祭神に大彦の名は見受けられませんでした。
最後に訪れた「布制神社」は、長野市篠ノ井石川にありました。
この神社は、グーグルマップのナビで確認していたにも関わらず、その所在がつかめず、参拝を諦めかけた神社です。
しかしなんとか根性で、見つけました。
背後に見える小高い山は、古墳でした。
この「川柳将軍塚古墳」は国の史跡となっており、善光寺平では珍しい前方後円墳になっていると云います。
伝承では、この古墳が大彦の古墳なのだと伝わっているそうです。
僕的には、前方後円墳というのが、少々引っかかります。
大彦は相当な出雲好きでしたので、彼が古墳を造らせるなら、四方突出型か、少なくとも方墳にしたと思うからです。
ともあれ、神社を参拝してみます。
創祀年代は不詳。
口伝によれば、布勢朝臣某が当地に下向し、布施郷の地の開拓に際し、祖神として正殿に三神を勧請したのに始まると云います。
参道の階段を上ると、要塞のような、立派な石垣の上に社殿がありました。
正殿の御祭神は、大倭根子彦國玖琉尊(孝元天皇)・大毘古命・彦太忍信命。
孝元天皇は大彦(大毘古)の父と記紀に記載され、彦太忍信(ヒコフツオシノマコト)は大彦の異母兄弟で後に物部イニエ王の重鎮になった男です。
古墳は埋蔵品から、4世紀の築造とされています。
大彦の時代とは年代が合わず、後世に築かれた古墳だということになります。
(この件につきまして、長野に詳しい紫竜様より情報をいただきました。
善光寺平では4世紀以降、かなりの数の前方後円墳が造られており、それは周知の事実のようです。
川柳将軍塚ついても、整った形の前方後円墳であるとのこと。
しかし後円部と前方部にそれぞれ主軸上に並ぶ石室が存在すると教えていただきました。
もし川柳将軍塚が大彦の古墳であるとしたなら、当初は方墳だったものに後世円墳を加え形成したのかもしれません)
しかしこの気品はどうでしょう。
ここが大彦の聖地と言われれば、そうかと納得するだけの、威厳があります。
北陸方面へ追われた大彦勢力は、そこで王国再建を試みます。
その王国は、出雲族の大祖神クナト王の名を借り、「クナト王国」と名乗りました。
やがてクナトの文字が省略され、「クナ王国」と呼ばれるようになります。
そう、魏書に出てくる「狗奴国」のことです。
阿部一族には久努臣もおり、その中に「久々智彦」(狗古智卑狗)がいました。
『旧唐書』には、
「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」
(日本国は倭国の別種なり。その国は朝日の辺にある故に日本を名とする。倭国はその名が上品でないと自ら嫌い、改めて日本に変えた。あるいは言う。日本は古くは小国で、倭国と並立していた。)
と記されています。
大和国(倭國)は東方のクナ国の人々を、侵攻する上で「蝦夷」と蔑称で呼びました。
日本書紀の景行期27に「東の夷の中に、日高見あり」と書かれているように、信濃から北の安部王国は、国名を「日高見国」と称しました。
やがてその名は「日本之(ひのもとの)国」となり、『日本国』と呼ばれるようになります。
青森の東北町に「日本中央の碑」(にほんちゅうおうのいしぶみ)という石碑が発掘され、謎を呼んでいます。
なぜこんな本州の外れが日本中央なのか?
一説にこの石文は東国の王「安倍致東」が建立したと伝えられていますが、当時の安倍政権には、アイヌ代表も加わっていたと云うことです。
つまり安倍・日本国はアイヌが住む北海道や樺太も領土にしていたことになり、青森の当地が日本国の中央であったことは、あながち誇張でないということになります。
また東北地方を領国とした安倍王は、都を津軽半島に定め、出雲と同じ龍神木信仰の「アラハバキ信仰」を広めました。
アラハバキの祭りには、王国各地より代表が参列し、祭壇に目を閉じた女神像を立てて拝んだと云うことです。
日本という国名は大彦の子孫である安倍王国が最初に使っており、この日本国は大和国とは別の国名で、独自の貿易を行っていました。
すなわち、日本列島には二つの独立国があったことは、当時、外国に広く知られていた事実だったのです。
倭国は自らの名を嫌い、安倍王国から「日本」の名を奪って名乗ったと、旧唐書は記しているのです。
蝦夷として制圧され続けた安倍家は、安東氏と名を変え、鎌倉時代後期には北条執権政府の支配下に入りました。
その頃、日本存亡の大危機である「文永」と「弘安」の二回の蒙古襲来があります。
私たちは、二回とも神風が吹いて、蒙古軍船を撃退したという奇妙な話を教わりました。
しかし、実際は執権政府の要求に応えて、津軽の安東水軍等が海上で懸命なゲリラ戦を繰り広げ、蒙古船を追い払ったと、土地の古老は伝えているそうです。
また、前九年合戦で敗れた安倍宗任は肥前松浦に移って、「松浦党」という水軍になりました。
彼らも蒙古軍船撃退に活躍したと云います。
しかし、当の鎌倉幕府は恩賞を与えることを嫌い、安東・松浦水軍の活躍を無視し、神風の奇跡として歴史を捏造したのです。
本殿背後の山から、勢いある風が一陣吹き抜けました。
身勝手な物部政権を嫌い、大和に頑なにまつろわなかったエミシの祖王「中曽大根彦」、彼のDNAが私たちの反骨精神に少しなりと受け継がれていると、願って止まないのです。
narisawa110
大彦と長髄彦を結びつけるものとしては一つだけお伝えしていないものがあります。それが津軽外三郡志です。
(兄弟の設定で会津であったのはアビ比古となっています)
大倭神宮もそうですが、津軽志は盛ってる感はありますが、神代記紀のタブーである長髄彦=大彦論に正面からぶつかる稀有な例としての位置付けは無視しきれないところがあります。
飛騨王朝説(出雲より古い一族と主張し、若干出雲下げをしてたはずです)も、忌部氏起源説もどこでも自分のところが古いという話を始めますが、それ以降のお話は考古学や歴史学との一致が見られ始めているので、古志古伝は見直されつつあると思われます。
武内文書も弓前文書も、宇宙から始めますしね。
ミナカタの子孫を主張する人の歴史ももしかしたら同じ様な性質の体系化された伝承なのかもしれません
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由比正雪の次は、東日流外三郡誌に関連した本を書く予定になっていました。先生的には、大彦に関する真実が書かれている部分もあるとの見解のようです。その他の古史古伝もそうですが、突飛なところが多く、その点では富家伝承と比べるもないことですが、しかし全くの出鱈目でもなく、真実をベースに盛られた部分もあると思われます。その抽出作業は面倒なので、誰かがエッセンスだけを教えてくれると嬉しいのですが😅
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こんにちは。何度も失礼致します。日曜なのでまとめて溜まっていた疑問などのコメントをしてしまいました。このブログにもあるように、大彦様がこのような性格であったように、私も本当に思えるのです。
ちなみに、富雄丸古墳から蛇行剣と変わった形の鏡が出土された時に、長髄彦が埋葬されてるのではと考察された方が結構いたように見受けます。
が、物部の祭祀嫌いの大彦が、いくら丸くない角長の鏡とはいえ、1枚も持ちたくなかったはず。
私は生駒近くの古墳とはいえ、記紀の流れから考察された長髄彦埋葬説は信じられません。。
大彦推しの私は、未だにこんな疑問を持っております。出雲源氏末裔で1滴くらいは大彦の血があるといいなあと思っていて、どうしても、力を入れてしまいます。
五条さんの(この呼び方でよいのでしょうか。。)ご意見をお伺いしてみたいです。お手すきの時で全然構いません。何卒宜しくお願い申し上げますm(_ _)m
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どうぞお気軽にお呼びください。私も出芽のSUETSUGUさんと、お呼びさせていただいております😊
さて、大彦の物部嫌いは相当なものだったと感じています。物部は大和に奴隷制度を持ち込んでいたので、それが特に許せなかったのではないでしょうか。富雄丸古墳は興味ありますが、大彦の墳墓ではありえませんね。
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出芽のSUETSUGUより
すみません。須賀神社と書き誤りました。雲南の須我神社のことです。
元宮、八雲山の3つの巨石は、
菅八耳王と稲田姫と猿田彦さまかなと思っておりましたが。。もしかしたら、クナト大神とサイヒメかもしれないのですね。
いずれにせよ、スサノオノミコトが主祭神となっていましたが、
その御子の名前が由緒書きに、
八島。。。とありましたので、八島士之身のことじゃないかと思い、
この初ノ゙宮は、八耳王と稲田姫の神社で確かに間違いないと思いました。
大元出発の、出雲王国とヤマト政権を読んで、稲田姫のご実家がこの須我神社のとこだったとありましたので、間違いないなと思いました。
このように、自分の目で見て確かめて、というのとても大事だなあと思い、寒い山陰ですけど、運転苦手なんですけど頑張って🚗車で廻ってます。
私が住んでいる山陰は、晴れてる日は大山が本当に美しいです。毎日拝められて幸せです。
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出芽のSUETSUGU様、ようこそ偲フ花にお越しくださいました。たくさんのお褒めの言葉と、拙著を購入くださり、ありがとうございます😊
山陰にお住まいのこと、そしてかの大彦のご子孫である佐々木氏由来の御家系ということで、とても羨ましい限りです。私の住む九州も良いところですが、数年山陰で暮らせたら、と思うことも多いです。
私も聖地巡礼で蛇に出会うことがしばしばありますが、それだけ自然が豊かなのだと感じています。
熊野大社の御祭神ですが、クナト王と事代主、または歴代の富家の王・副王で間違いないでしょう。多くの神社で祭神が書き換えられていますが、大元の神が消えて無くなるわけではありません。まして、天宮山は王家の墓ですので、祀られる御魂が変わることはないのです。天宮山登拝は、これまでの私の登山経験で言えば、A~Eランクのうち、Cランクといったところです。特別に危険な箇所というものはなかったように思います。傾斜は所々で急な場所がありますので、そこだけ注意して登られたら良いかと思います。天候の悪い日でなければ、登りやすい山と言っても良いと思います。ただスズメバチ注意の案内板がありますので、油断はできませんが。
須我神社の祭神はずっとスサノオだと思い込んでいたので、あれが八耳王と稲田姫の宮田と気付いたのは、恥ずかしながらごく最近のことでした。『ヤマト政権』にも書いてありましたね😓
雲南方面に伝わる「阿波から来たワナサの神」というものに今興味を持っていて、出雲王家、特に富家の母系には、四国のご血筋が関わっているのではないかというのが新シリーズで考察している内容となります。
命主社の祭神は神皇産霊神となりますが、この神は幸姫のことであろうと思われ、大国主の死に際して、母の刺国若姫(さしくにわかひめ)の嘆願でキサカヒメ・ウムカヒメの2柱を派遣し蘇らせたとの話があります。四国には常世思想を感じさせるものがあり、幸姫もそちらの方だったのではないかと思い始めています。刺国若姫は事代主の母親で、天之冬衣王の后ですが、刺国とは四国(死国?)出身だということなのではないかと考えています。これは富先生に対しても、とても大それた考察ですが、旅を続けるほどにどうしてもその考えが深まるばかりで、慎重かつ大胆に考察を重ねているところです。
神社巡り、聖地巡りは健脚になりますね。私は何度か命の危機に瀕したこともありますので、無理のないようにぜひお楽しみください。『偲フ花』がご参考になるようでしたら、これからもどうぞよろしくお願いします。
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返信ありがとうございます✨
〜「多くの神社で祭神が書き換えられていますが、大元の神が消えて無くなるわけではありません。まして、天宮山は王家の墓ですので、祀られる御魂が変わることはないのです。」〜
そうですよね、そうですよね。
時に、本当は違うのに。。と悔しくなることもありました。特に神魂神社で天穂日命のことをこれでもかっとヨイショっされてる由緒書きを見ると、つい目を背けていました。
でも本当の神様はそんなことで怒ったりしませんね、特に出雲王家の方々は、敵でさえも最後には許す大きな器を持っておられるのですから。
ここにおられてこの地を守って下さってるんだ、二度と奪う奪われるの争いがないように。。と自分も思うようになれればいいなと思います。
ところで。。「刺国若姫は事代主の母親で、天之冬衣王の后ですが、」という部分ですが。。
ん?刺国若姫とは田心姫のことなのでしょうか。すみません、まだよくわかってないのですが。。田心姫とは、宗像三姉妹の長女で、沖津宮祭主のことですよね。。おお。。アタカタスさまが宗像家と家族になりました!の九州ではなく、四国説??? あれ?変なこと言ってますかね。。
常世シリーズを慌てて今から読もうと思います。
頭がなかなかついていけてなくてm(_ _)mごめんなさい。
四国ですが。。四国で気になることがそういえば~1つ。
ここからは地元ネタ。もしかしたら五条さんはご存知かもしれませんが。。
(何が真実かは分からないのですが)なんでも大山の奥宮大神山神社の宮司さんは、アジスキタカヒコネの直系ご子孫だと地元の古事記ガイドに載せられていたのです。(一応、御本人がそう語られておられるようです)
相見家、花田家と言えば、王家筋の姓ではないかと書かれてる本も見ました。。
これが本当に事実だとすると、かなりビッくらポンだなあと思います。。。令和になり、ようやくその宮司さんはカミングアウトができた、ということでした。それまでは用心に用心を重ねて一族はずっと隠しておられたそうです。
謎なのが、その相見宮司さんはアジスキタカヒコネは逃げて逃げて四国でお亡くなりになったと言っておられること。(地元の古事記ガイドブックにもこのような記載があります。)
なんでも倉吉では大国主大神の末裔狩りのようなことがあったという伝承があります。一体どの時代なのでしょうか。。。一族抹消を避けるために四国へ。
幸姫様も四国がルーツならありえなくもない??
ん?ではアジスキタカヒコネ自体はヤマトには全く行ってない?息子タギツヒコに奈良に祀られたり、京都では賀茂大神となっておられるのに???(か、賀茂ぢやない、字が難しくて書けてない(T_T))
アジスキタカヒコネが四国で身を潜めていたという説を一体どう受け止めたらよいものか、という感じです。
大元出版シリーズでは、八代ツートップの非業な事件後しばらくは阿須伎社におられたとのことでしたが。。
四国、
五条さんのワナサの神シリーズ楽しみです。一体何に引っかかって惹かれておられるのか、恐らくそれはいつか確信に変わるのかもしれませんね。
あと登山のご指南ありがとうございました。健脚目指してがんばりますよーまずはCランクの天宮山から。
長々と失礼致しました。
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大元出版では、確かに田心姫は天之冬衣の妃になったとありますが、事代主を産んだとは書いていないと思います。長野の宮木諏訪神社に、刺国若姫の墓と呼ばれる場所があり、タケミナカタが母の沼川姫とともに、祖母の彼女を連れて来たとあるようです。母親はまだしも、祖母を連れて長旅をしたとは考えにくく、私は刺国若姫の故郷が長野であり、死後遺体が移送され、埋葬されたのではないかと考えています。とはいえ、十分な考察はまだこれからの話ではあります。
アジスキタカヒコ四国逃亡の話は初耳でした。8代両王の死後は、事代主の鳥鳴海が大名持を継いだようなので、アジスキタカヒコは9代少名彦に就任したはずです。その後も郷戸家(神門家)からは大名持が出ていますから、一族は出雲にいたと思われるのですが。
確かに、出雲族が力をつけたホヒ家に迫害を受けたというのは度々聞かれる話です。それで私は、富先生にそのことを聞いてみました。すると先生は「そんなことはなかったよ。出雲で何かあれば、散家の人たちがやってきて、仁王立ちで睨みを効かせるんだからね」と、誇らしげに話してくださいました。実際、ごく最近まで、散家は出雲に来ていたらしいという生の情報も得ています。
ただ、気になるのは、郷戸家側の情報があまりに出雲に残っていないことです。やはり迫害はあったのかもしれませんし、アジスキタカヒコの子孫が四国に逃亡したということもあったのかもしれません。
相見宮司が郷戸家のご子孫であるというのは、とても貴重な情報ですね。
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目からウロコです、確かに事代主を生んだわけではない。出雲王家は入婿だったり養子だったり異母兄弟だらけだったり、こっちとあっちが同一神だったり、役職名と名前を分けて考えないといけなかったり。。。結構柔軟に考える必要がありますね。それぞれの神様の出生地、実家、故郷等の場所もしかり。
ちなみに、アジスキタカヒコネと大神山神社の宮司さんの関係については下記の本にありました。
山陰の古事記謎解き旅ガイド
古代出雲王国研究会
6年前くらいに発行された地元本です。地図が結構良くて買いました。これで467円!! 初期のフィールドワークに地図と神社の位置関係を俯瞰で見るのにとても役立ちました。
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すいません。続きです。
この地元古事記謎解き旅ガイドはamazonでも買えそうです。
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すみません、先程長々と書いた山陰在住者です。肝心な名前ペンネームを書き添えることを忘れてしまいました。
出芽のSUETSUGUです。宜しくお願い致します
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はじめまして。山陰在住者です。半年前から大元出版シリーズを読むようになり、古代出雲王国にすっかり魅せられてしまいました。山陰にある各神社や伝承地へフィールドワークをし、元宮奥宮の磐座参拝のため、山登りで足腰鍛えております。おかげでとても人生が豊かになりました。山陰在住というと、田舎、としか思えてなかったのですが、こちらに住んでて良かったと初めて思えました。
五条さんの、偲フ心シリーズに出会うことができ、心から感謝しております。本も購入させて頂きました。人麿さんの事情がよくわかり、記紀のあれほどまでの改ざんのベースとなった時代背景がわかり勉強になりました。
自分は、宇多天皇をルーツとする近江源氏佐々木氏(沙沙貴山君がルーツ)からの分流、出雲源氏末次氏の末裔であるらしいです。
(島根半島から海沿いにやってきて、松江城の前の末次城に縁があるとは聞いていましたが、3年前に長男から出雲源氏の末裔だと聞き、曾祖父ちゃんからの口伝(笑)家紋やらなんやら調べたら、結局ウイキに載っていたというオチでした。)
元をたどれば自分の祖神である、大彦さま→東出雲王家の八重波津身様に対する敬愛の念を、五条さんの文脈から感じては喜んでおります。
島根の熊野大社は、元々は東出雲王家の王宮であった神魂神社が物部氏に占拠されてしまい、そこから逃れてきて最後に住まわれた場所であったのですよね。始めはクナト大神と事代主を祀られていたと知りました。以前に熊野大社元宮遥拝所から天宮山を拝み、八重波津身さまの埋墓はどの辺りだろうと想いを寄せました。五条さんのブログを見まして、来春に登山をトライしようかと思いました。
余談ですが、元宮道中に蛇が2匹現れれ、あ、歓迎されてるのかなと思いました。出雲大社近くの三歳社へ向かう道中にも、同じ種の茶色い2匹のヘビ様にお会いしました。事代主さまが関係するお社では蛇になぜか出会います。須賀神社元宮では、八雲山で秋でしたが会いませんでしたのに。。
話は戻りますが、私としては熊野大神は、クナト大神(大山の大神山神社におられますか)か、事代主さまであって欲しいと願っております。
あらら。。話がアチャコチャ飛びましたね。文章力がないもので、お許し下さい。
テーマは、大和のまつろわぬ首長、真のヒーロー大彦様に光を、ということが書きたかったのです。
そして、事代主の娘である、御穂須須美命。あの御方も美保神社の主祭神から外れてしまって影にお隠れに。。。ひっそりと地主社や幸魂神社におられますよね。粟嶋神社を晴れの日は見渡せる場所から、父上を想い鎮座されています。(北陸では有名な御方ですのに)五条さんも書いておられますように、お母様の沼河比売さまも、美保神社の大后社におられたり、沖ノ御前島は、なぜか揖夜神社におられるはずの玉櫛姫君をお迎えに行くことになっているという不思議さ。
大彦さま、御穂須須美命さま、沼河比売さま、事代主さま
この4人の神様に光を。
これが私のこれからのテーマです。
そのためには奈良にも北陸にも行かねばですね。。
五条さん。。どうかこれからも、この4人に光を。新着をワクワクしながらお待ちしています。特に大彦さまの真の生き様を後世に残してあげたいです。長文失礼いたしました。
感謝をこめて。
(追伸)命主社のストーンサークル、真名井遺跡から出土された最高級クラスの翡翠がどうにも気になります。あそこの後ろの磐座の下に埋葬された御方がいるのではと気になります。翡翠と言えば。。。東出雲王家筋ではないかと。五条さんの考察がお聞きできたらなとか勝手に思ってます
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初めまして。
いろいろなご意見拝見しています。
先日、長野市篠ノ井石川の布制神社に行きましたが、その時道を間違えて川柳将軍塚古墳の方へ行ってしまいました。
途中で通行止めになっていて痛い目にはあったのですが、そこに案内板があって川柳将軍塚古墳の側には姫塚という前方後方墳墓があるとのこと。
前方後円墳と前方後方墳が混在しているのも変に思うので、このことからも川柳将軍塚古墳は前方後方墳ではないかとも思います。
もうひとつ、長野市から軽井沢方面へ行く国道18号線の途中に東御市という街があります。
そこに長野県最大級の方墳があって名前を中曽根親王塚と言います。
天皇家の子供に中曽根親王という方はいないようで謎の存在なのだそうです。
私は中曽大根彦の子供で中曽根親王なのではと思いました。
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tanaka様、コメントありがとうございます。
中曽根親王塚のことは知りませんでした。名前と形状から、tanakaさんのおっしゃる通り、大彦の親族の墓である可能性は高いですね。
大彦の古墳は前方後円墳ではあり得ないと思いますので、そうであれば川柳将軍塚古墳は彼の墓ではないということになりますね。造られた時期も、姫塚古墳と同時期のようですから、確かに前方後円墳と前方後方墳が混在しているというのも、変な話です。
ひょっとすると中曽根親王塚こそが、と言うこともあり得る話です。
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五条桐彦様
返信ありがとうございます。
何だかワクワクしますね。
中曽根親王塚古墳を長野県下最大級と書いたのですが、長野県で最大、東日本で1、2を争う大きさだそうです。
ただ年代としては五世紀代のようで前半とも後半とも説があるようです。
川柳将軍塚古墳や森将軍塚古墳は四世紀代のようですので1世紀くらいのひらきがありますね。
川柳将軍塚古墳が元々は前方後方墳だったとするならば、千曲川を挟んで左岸は中曾大根彦側、右岸は物部側と対峙していた時期があったのではないかとの勝手な妄想です。
歴史は分からないから楽しいですね。
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なるほど、それは妄想が膨らみます😊
長野には、紅葉姫の伝承地を訪ねてみたいと思っています。年内か、来年あたり、その時に中曽根親王塚古墳も見れたらと思います。
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五条桐彦様
東御市となりの上田市別所温泉は平維茂が紅葉による怪我を癒した温泉だそうで、駐車場の真ん中に平維茂の墓という塚があります(本当は別時代の古墳らしい)
是非ゆっくりお出かけください。
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それは良い情報をありがとうございます。
別所温泉はブログ友のyopioidさんが、星が綺麗な温泉郷として教えてくれたところかも知れません。
ぜひ行ってみたい。
紅葉姫の聖地としては戸隠・鬼無里方面を考えています。
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森将軍塚古墳、どう思われますか?
私は、前方後方墳にも見える気がするんです
あと、時代背景的に安倍の色彩が強く出ているのが松本市の弘法山古墳です
東日本最大クラスの前半後方墳で、東海地方の土器が出ており、古くは三世紀とも言われる古墳です
YouTubeにも取り上げられています。
信濃には、大彦、ヌナガワ別の両方が入ってきてる気がします。
本当の会津は、信濃かもしれません
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福島に大彦は行っていないでしょうから、信濃で別れた、つまりそこが会津なのでしょうね。
弘法山古墳、千鹿頭との絡みも気になりますね。次は阿部族をやることになるかもしれないので、貴重な情報です。
森将軍塚古墳は行ったことがありませんが、写真で見る限りは確かに、後円とも後方ともつかない形ですね。それに前方部も細長く、後部に対して少し小さく見えます。前方後円墳にしては、バランスが悪い気がします。
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紫竜です。
篠ノ井石川の布施神社、とても懐かしいです。
長野市に住んでいる頃に参拝した神社の中でも特に印象に残っています。
キリコさんも感じたと思いますが、なにかただの神社ではない、
という雰囲気ですよね。
ところで、少し気になることがあります。
お手数ですが、以前見ていただいた非公開ブログを開いて見ていただけないでしょうか?
そこにお伝えしたいことが書いてあります。
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紫竜さん、コメントありがとうございます。
早速拝見しました。
なるほど、とても示唆に富んだ貴重なご意見です。
前方後円墳は大和王朝の物部期以降に作られた古墳であるというのが僕の認識であり、おそらく一般的なものだろうと思われます。
それが善光寺平で多数造られたというのは、それだけ物部軍の侵攻激しく、また物部系の有力者が統治した時期があったということを意味しているのでしょうか。
ただ、上毛国に逃れた豊彦もそこの前方後円墳に埋葬されています。
竹葉瀬君が神功皇后の養子になる時、貫前神社から長野を通り、上越の居多神社に至ったルートが見えています。
その時に一部の人たちが善光寺平に住み着き、それらの古墳を築いたのかもしれません。
物部嫌いの大彦が、物部式の古墳を造らせたとは思い難いのですが、「後円部と前方部にそれぞれ主軸上に並ぶ石室が存在するという部分」があるのとするのなら、当初は方墳だったものに後に円墳を加えて形成したのかもしれません。
何分古墳に関してはそれほど精通していないので、そんなことが起こりうるのかは自信がありませんが。
先の足長公園の磐座ですが、FBの3つのグループに投稿したところ、500近い反響をいただき、多くの方にシェアいただきました。
シェア先では議論になっているところもあり、当地を訪ねてみようという方もいらっしゃるようです。
また当ブログの方でも記事にしたいと思っていますので、これからも頑張ってください!
僕も知識不足で憶測で書いているところも多く、多くのご意見やご指摘をいただけると助かります。
また気になるところがあれば、教えてください!
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こんばんは。CHIRICOさん。袖振り合うも多生の縁とはよく言ったもので、色々な御縁に恵まれてるようで何よりです。
そうそう・・・「世の中には偶然は存在せず、あるのは必然である。」なんて言葉を私は支持してまして、起こるべくは起きるようにして起きるんだとおもってます。選択した結果が形になるんだと。私は神様を敬いますが、この世に生きる上で時の運や森羅万象を除いては神様を頼らない方向で生きています。だって、この世の現実に神様が関与するするのは不平等に感じるものですから。
良い結果は良い選択から。これからもよりよい選択にCHIRICOさんが恵まれますよう。ではでは。
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8まんさん、おはようございます!
神に対する考え方は、僕も同じです。
彼らはただそこに在るだけ。
それだけで十分に畏れ多いものです。
感謝こそすれ、何かを願うなどというのはお門違いかと。
それでもこれほどの幸運が僕に訪れるものかという思いで、今正に空港のロビーにいるところです。
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紫竜です。
不快に思われるのではないかと心配しておりましたが、
読んでくださってありがとうございます。
そうですね、ちょうど善光寺平で最初の頃造られた前方後円墳の周りに(長野市東部・中野市)、
物部系の神社が点在していますから、キリコさんの推察とおりかもしれません。
また、「豊」と付く地名が多いことも気になりますね。
足長公園の件、本当にありがとうございます。
本当に、できれば多くの方々に現地を見ていただきたいと思います。
実は、行政側はもう私の意見は一切聞き入れません(電話をしても無視)、
あげくのはてに、それとは無関係の資料の提供さえしてもらえなくなりました。
それも私の不徳が招いた事態と反省しております。
私のことはともかく、あの存在だけでも、多くの方に知っていただきたいです。
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とんでもない、とてもありがたいです!
地元の方のご指摘、情報ほど貴重なものはありません。
物部がかなり侵攻し、仁科家を目付けにしたと聞いています。
また豊彦は讃岐の越智家と縁戚があったようで、竹葉瀬君のルートに越知神社があるのも面白い。
行政は住民の意見を聞くことが一番の仕事でしょうに腹が立ちます。
アホな政治家やそんな奴らが、コロナ禍でも必死に納税する僕らの税金でのうのうと暮らしているのには頭に来ますね!
まあ、言っても虚しいのですが。
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はじめまして。
とても興味深いお話でした。
しかし勉強不足な自分はこのお話を信じきれません。
単刀直入に聞きたいのですが、このお話は創作なんですか?それとも神話に隠された正しい日本の歴史なんですか?
そこがものすごく気になります。
自分の信じた神の真実の形を見たいというか、曖昧なものをハッキリさせたいというか、そういう気分で今問いかけています。
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おはようございます、琴宮さん。
ようこそお越しくださいました。
僕は昔から日本の自然美を愛し、そこに根付いた神社参拝を趣味にしていました。
当初、古事記や日本書記に記された神話にワクワクし、その伝承地を訪ね歩いたものです。
古事記や日本書記は藤原不比等や他者の思惑によって、真実から大きく変えられて記されているようです。
彼が歴史から消し去りたかった事実は二つ、父鎌足の悪行と邪馬台国の存在です。
鎌足と天智帝・中大兄皇子は当時の政権の有力者を次々と手をかけ、クーデターを起こしました。
それが乙巳の変です。
邪馬台国の卑弥呼と称される宇佐王国の豊玉女王は、魏国から親魏倭王の金印を受け取っています。
つまり建前であっても日本の一国が魏の属国となった事実が許されなかったのです。
そこへ出雲を乗っ取りたかった穂日家の果安(はたやす)が出雲王国の存在を神話化させてうやむやにしたい思惑があり、不比等と取引をしたようです。
そのようなことがあり、真の歴史と全く違った歴史書が出来上がりました。
また、おおくの権力者が自分に都合の良い歴史書を書かせ、世に残しています。
ウエフツミ、竹内文書、ホツマツタエなどもそれに類すると僕は思っています。
その中で出会った富王家の伝承、なぜかこれは本物だと感じたのです。
富王家とは失われた古代出雲の、東出雲王家です。
今は穂日家の末裔が出雲臣を名乗っていますが、本来は富家が出雲臣を名乗っていました。
その富家が迫害を逃れ、一子相伝で秘密裏に、確実に古代の歴史を伝え残したものが富王家伝承になります。
僕がこの歴史書を本物だと直感した理由はただただひとつ、「とてもシンプルで美しい」かったからです。
本物とはそうしたものだろうと思います。
そしてその本を基にした旅をすることにしました。
このブログの「八雲ニ散ル花」シリーズはそうした僕の記録です。
実際に現地に足を運び、伝承や由緒、またその空気を感じ取ると、ますますこの本に記されたことが本物であると感じさせられます。
もちろん、全てが正しいとも思っておらず、長い時間とともに歪められた部分も当書にもあるのだと思います。
それでも真実に一番近い歴史書であると僕は思います。
ご興味があれば、まずは富氏のことを記した部分をご覧いただきたいです。
https://omouhana.com/2017/09/24/富神社:八雲ニ散ル花%E3%80%8012/
https://omouhana.com/2017/11/10/稲佐の浜:八雲ニ散ル花%E3%80%8013/
そして更に興味を持っていただけたら、とても長い話になりますが、私の「八雲ニ散ル花」シリーズを辿っていただけると幸いです。
https://omouhana.com/2020/10/13/出雲と蘇我王国/
もちろん大元出版の書籍を手に取られることも、強くお勧めします♪
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毎回毎回楽しみに拝見しております。伝承をベースにした紀行文のようで、いつか行きたいな・・・と写真を見ては『ほっ』と心しずめています。
『幸福論』拝読しました。もう手に届かないありふれた日常こそ、本当に価値あるものだと感じました。また仕事でも趣味でも苦しめることを楽しめると、やはり人生は変わるようです。『世界は、本当は美しかった。気づかなかっただけだった』と。すいません。幸福論を読んで投稿してしまいました。
追伸
冒頭の会話(?)は、毎回、伝承を学ぶ上でも、やはり『ほっと』して良く学ぶが進みます。また根性で探しあてたとのこと。なにか親しみも感じて微笑んでしまいました。僕は柿本人麿公の最期の地を探してましたが分かりませんでした。根性が足らないようですね。
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こんばんは、さいとう様。
コメントありがとうございます。
冒頭の部分は、つたないストーリーではございますが、実際に旅してグッと当時の情景が思い浮かんだ時、それを描き書いてます。
当ブログは、旅した後で僕自身がもう一度同じ旅を味わうために書いているのですが、
読んでくださる他の方には、ただただ観光スポットやパワスポを巡るだけでなく、ちょっと深いところまで足を踏み込んでもらう参考になれば嬉しいなと思っています。
旅先で絶景に出逢うことも多い僕は、「神に愛されてるじゃんっ!」って思ってたこともありましたが、
よくよく思い返してみると、深夜から出かけてみたり、山登ってみたり、遭難しかけたり、、、何度もトライしてそれらの景色に出逢えていました。
偶然、絶景に出逢えることもありますが、下調べして、準備して、タイミングを見計らってと、努力をした先に、女神は微笑んでくれるようですね。
あと、時間ギリギリまで「根性」で粘ることも大事です。
柿本人麿公の終焉の地、気になりますね。
どこかで石碑が見つかったという記事を見たような気もしますが、富家伝承本の中に書いてあったかな?!
何か新たな発見がありましたら、どうぞ教えてください!
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